どの様な状態になったことをして「わかる」と呼んでいるのかは絶対的な基準はないものです。
「わかる」という感覚は、自分のなかでその対象に対して自分の持っている言葉で理解することができ、かつ相手の言っていると思われることに対して共通する部分が発見できることではないでしょうか。
そのためには、その対象を理解できていない自分との比較において「わかった」と感じることができるものとなっていると思われます。
理解するための源泉となっているものは、一回しかない体験を繰り返してきたことによって蓄積されている記憶との合致性にあると思われます。
同じ体験をしてもそのことに対しての記憶の内容が個人ごとに異なるのは、合致性の対象となるそこまでに蓄積されてきた記憶が異なるからです。
このもとになっている記憶が単なる知識ではないことが大切になります。
地球が自転して動いていることは知識としては記憶されており、ある意味では常識となっていることです。
ところが、地球が動いていることを実感できる体験をしたことがある人はめったにいません。
実感として地球が動いていることを感じることができていない限り、自分の中では「わかった」とはならないのです。
知識として地球は動いて自転していることを教えられた時には、そのことを証明する方法も教わったのではないでしょうか。
しかし、その方法をやってみたとしても自分の感覚として地球が動いていることを感じることは難しいのではないでしょうか。
ところが宇宙飛行士として地球を外から見てきた人にとっては、地球が実際に動いているのを目の前で経験してきているのです。
つまりは、実感として地球が動いているということを体験してきているのです。
さて、この宇宙飛行士と私とは地球が動いていることに対しての「わかった」感は決して同じではないことが分かるのではないでしょうか。
私の実感では、地球・地面は動いている実感が全くありません。
地震の時に揺れることは実感できますが、常に動き続けているいるという感覚は全くありません。
そんな体験をしたことがないからです。
私にとっての実感では太陽が動いて東から上ってきて西に向かって沈んでいく実感しかないのです。
私には、「地球が回っている」よりも「陽がのぼる」の方が実感となっているのです。
自分で何かを判断するときには、自分の持っている感覚で判断することによってしか実感を得ることはできないと思われます。
例えそれが事実であったとしても自分の実感として持っているかどうかによって「わかる」感が違っているのではないでしょうか。
全く同じ体験をしてきている人はいません。
同じような環境で育ってきた双子であっても全く同じ体験をしてきているわけではなりません。
そのために、体験によって蓄積された記憶は、同じ対象についても一人ひとり異なっているのは当たり前のこととなっています。
それは、一つの言葉についても同じことが言えるのではないでしょうか。
初めてその言葉に触れた時にはその時の環境からどんな意味を持っている言葉であるのか推測をすることになります。
推測ということは関連すると思われる記憶を動員して仮説を立てることを行なうことになります。
あるいは、初めて触れた言葉について辞書的な意味を一緒に教えられることもあります。
一回限りの体験であれば時間とともに薄れていくことになります。
しかし、次に同じ言葉に触れた時には残っているその言葉についての記憶が動員されてきます。
その記憶が今回触れた言葉の解釈として相応しいと感じた時に「わかった」という実感が得られると思われます。
この記憶との合致のことを同定と呼ぶことがあります。
また、違う場面では持っていた記憶と同定ができずに同じ言葉であっても違う解釈をしなければならないことが起こります。
この場合はどんなことが起きているのでしょうか。
持っている記憶では今回の解釈として合わないことを感じることになります。
教えてもらうなり辞書的に確認するなりして、今回の解釈として相応しい意味を見つけることになります。
見つけられた意味は今までの記憶との共通性を確認することで、その言葉に対しての意味を広げて上書きしていくことになります。
同定された場合には「わかった」という感覚を伴って更に記憶が強化されることになるために、より強力に上書きされていると解釈することができるのではないでしょうか。
同定されなかった場合には、共通性の確認によって意味が強化されることと同時により広い意味にも使われることを確認して上書きされていくことになると思われます。
いずれにしても、同じ言葉に対しての体験を重ねることによって上書きされる経験を重ねていくことになるのではないでしょうか。
証明された事実なのだからそのまま分かれということは無理なことになります。
事実として理解してくださいということは可能ですが、そのことによって「わかった」こととはならないのです。
事実と言うと誰もが同じようにわかるものと言う錯覚があるのではないでしょうか。
事実は事実としてそこにあるだけのものです。
その事実をどのようにして「わかる」のかは、個人の感覚によるものであり分かり方を規定できるものではないのです。
「わかる」ということは悲しいや嬉しいと同じような個人としての感覚なのです。
「わかる」ためには事実を理解することではなく論理を理解することではなく、感覚として自己の体験記憶との同定が必要になるのです。
「わかる」ことによって初めて自発的な行動するための原動力となります。
「わかる」ことなしに行動に結びつけようとすると条件反射や習慣付けが必要になったりします。
あるいは、行動するためだけのインセンティブやモチベーションが必要になってくることになります。
結果だけを重視し、結果を得るためだけの行動のためにはインセンティブやモチベーションがやたらと強調されることになります。
実感で「わかる」ことができれば勝手に行動することになるのではないでしょうか。
反対に行動したくて仕方なくなるのではないでしょうか。
「わかる」は「分かつ」から来ていることばです。
理解することとは異なります。
理解してもらうことはできても「わかって」もらうことはとても難しいことになります。
簡単には使いたくないことばかもしれないですね。
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