2015年11月30日月曜日

事実を表現する難しさ

日本語の感覚において苦手としていることの一つに事実を表現することが挙げられます。

継承され続けてきて言語基盤の中核となっている日本語の精神文化は、欧米型の言語文化とはかなり異なったものとなっています。

とくに、戦後の社会構造や国家形成の手本としてきたアメリカにおける精神文化とは真逆の特徴を持った言語感覚となっている部分が多くあります。


イギリスの精神文化によって形成されてきた英語は、アメリカに渡ったことによって新しい精神文化を基盤として言語感覚を生み出して継承されてきています。

その根源にイギリス英語の感覚も残しているのですが、資本主義の現実的な担い手としての社会の実現には大きな変化を伴ったものとなっていきました。

そこには人として当たり前に判断することに対しての基準が異なったものとなっていることが少なくありません。

同じ言葉を使って同じような思考過程をたどったとしても判断基準や価値基準が大きく異なっているために違和感を感じることが少なくないのです。


それにもかかわらず、日本の学校教育を初めとした社会環境はアメリカ型社会を手本として構築されてきました。

企業や組織の運営においてもそれは同じことです。


そこでは絶対的な事実やそれに基づく論理性を正しいものとして人の感情による判断を極力排除したものとなっています。

現実的に対象として捉えることができる具体的なものに価値を置き、そこに至る過程よりも結果としてそのものを得ることに価値をおくことになります。

現代では、アメリカ社会自体がそのことに対して疑問を感じ始めるようになってきているところではありますが、精神文化として言語感覚にまで染み込んだ影響力は簡単には変えることができないものとなっています。


そのアメリカ英語の言語感覚に対極にあるのが日本語の持っている感覚となっています。

アメリカ社会を手本として作りげてしまった日本の社会環境では、日本語の持っている言語感覚に素直に従って行動をしていると評価されないことばかり起こることになります。

言語が持っている感覚はすべての知的活動に対して影響していますのであらゆる場面で顔を出すことになります。

持っている日本語の言語感覚に素直に従った行動は評価をされませんので、評価をされるように無理やりその感覚を抑え込むことが起こります。

これがストレスの元になります。


ストレスを抱えた社会人の率が世界一である日本においては当然のごとくストレスを原因とした病気も多発していることになります。

会社を辞めたとたんに体調がよくなった人の話はいたるところに転がっているものとなっています。


日本語の感覚では判断基準は事実ではなく、その人の持っている実感になっているのです。

事実としては論理や証明されたものとしての正しさがあったとしても、個人としての行動のための原動力とはならないのです。

絶対的に正しいから納得してやらなければいけないという行動基準が日本語の感覚には当てはまらないのです。


事実を表現するときには言語で行われます。

実感として感じることも持っている言語によって感じることになります。

五感で感じる感覚も、その感覚を言語化できなければ感覚として感じることは出来ません。


同じ日本語を母語にしているとしても、一人ひとりの持っている日本語は異なったものとなっています。

誰かが事実として表現したものであっても、それを受けた人が事実として同じようにとらえることができるとは限らないのです。

厳密に言えば、一人ひとり違った受け取り方をしていることになります。


同じ言葉や表現に対しても一人ひとり持っている感覚が異なっているからです。

したがって、絶対的な事実があったとしてもそれが表現をされたとたんに同じ事実として受け取ることが不可能となってしまうのです。

ましてや日本語の感覚においては行動するための基準は客観的な事実よりも個人としての実感の方が優先されることが多くなっています。


アメリカ英語の感覚は表現されたもののみを対象とすることができます。

そこに対して事実であるのか意見(実感)であるのかと言う判断が自然に行なわれるようになっています。

これがアメリカで形成された精神文化です。


事実に基づいて判断するような精神文化が形成されてきているのです。

論理についても事実に基づいた検証が一番説得力があるものとなっているのです。

事実を表現することに対して厳格性を求め事実であるのかどうかに対しての判断基準において厳しいものを持っているのです。

アメリカ英語を使うことによって自然とこの感覚に影響をされているのです。

事実かどうかを言語上で確認し合うことは当たり前のこととなっており、聞き返したり反証したりすることは失礼でもなんでもない当然のこととなっているのです。


対して日本語の感覚では聞き返すことや確認すること自体に好意的な感覚がありません。

能力に欠けることやレベルの低さを自ら証明する行為として捉えられることもあります。

その結果として、事実を事実として共有することができません。


無理に事実に基づいた判断をしなければならない場合には、それぞれが異なった事実に基づいて行なうこととなりどこかでズレが生じることになってしまうのです。

日本語の感覚では事実に基づいた判断はうまく機能しないのです。

日本語の感覚では事実を表現することに慣れていない分、やり方がよく分からないのです。

無理に共有したい事実を表現しようとすることは訳の分からない表現がたくさん出てくることにつながってしまうのです。


それと同時に事実の表現を受け取る側にもその準備がないことになります。

しっかりと事実として認識するためには実感としての事実であることが必要になってきます。

その確認のための方法が一人ひとり異なりますので一様の表現では多くの人と事実を共有することができないのです。


日本語の表現では事実なのだか意見(実感)なのだかわからないものがたくさんあります。

表現で明確に区別する感覚がないのです。


無理に事実のみを表現しして共有しようとする行為は、日本語でアメリカ英語の感覚を表現しようとすることと同じことになりますので実際には不可能です。

ところが企業活動や社会生活ではアメリカ化された活動のなかでこれを求められることが多々あります。

定型化された項目や枠が決められた箇条書きに埋め込む行為は無意識に行なっていることだと思います。


手続き上の事実表記についての工夫だと思います。

決まりきった項目の決められた枠の中に記入する行為はストレスを感じさせるものとなっていませんか?

日本語の持っている感覚からすると得意なことではないのですね。


事実をできるだけ表現しようとすると話し言葉でも文字でも日本語が減ってくることに気がついているでしょうか。

品番やシリアル番号などがその典型ではないでしょうか。

事実を共有することは簡単には出来ないことを知っておくことは大切ですね。

アメリカ英語の感覚では当たり前に行っていることですので余計に惑わされないようにしたいですね。



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