2015年12月1日火曜日

「前」「後」「左」「右」という相対感覚

日本語の「前」「後」「左」「右」に相当する言葉を持たない言語があります。

このような言語では空間を認知するのにどのようなやり方をしているのでしょうか。

オーストラリアやメキシコの先住民の言語においては「前」「後」「左」「右」や「上」「下」といった空間的な関係を表す言葉がないと言われています。


その代りに彼らは日本語の「東」「西」「南」「北」に当たる方角を示す言葉があるそうです。

空間の位置関係を太陽の動きを中心とした絶対的な方角によって表現することになっているようです。


この感覚は人が何処にようにともどんな向きにいたとしても考慮する必要のない絶対的な位置関係になります。

人の向きや場所に関係なく「東西南北」という基準が絶対的に存在するからです。


「前後左右」の空間把握方法はその人のいる向きや場所によって対象の位置が変わってしまいます。

向き合った人同士の場合には、それぞれの人にとっての「前後左右」は全く反対の位置を表すものとなってしまうからです。

複数の人における「前後左右」を合わせるためには、同じ場所において同じ方向を向いている必要があるのです。

その前提がない限り「前後左右」は絶対的な指標とはなり得ないものとなっています。


「前後左右」の言葉を持たない「東西南北」の言葉を持つ人たちを長時間さまざまな交通手段で出発地点からはるかに遠いところに連れてきたとします。

ほとんどの人が正確に出発地点の方角を示すことができるそうです。

あらゆる対象に対して空間認識においては「東西南北」で行なわれているので、みんなが同じ方向を指し示すことができるのだそうです。


片や「前後左右」という言葉を持ち日常的に使用している人たちを同じように連れていくと、ほとんどの人が出発点の方角を示すことができません。

それどころか「わからない」と答える人がほとんどとなっているようです。

「前後左右」の感覚は自分が今いる地点が基準となっているために、自分の位置が動いてしまった場合には以前の関係が通用しないのです。

今の自分がいる場所と向いている方向を基準とした相対的なものでしかないのです。


したがって「前後左右」による表現は自分を基準をした場合には他の人にとってはとてもわかりにくいものとなってしまいます。

移動の仕方を説明するときにも「右に10m、前に10m」といった表現は常に移動した先においての相対的な空間把握であり、そこから今いる地点からの方向や距離を把握することはとても難しいものとなっています。


何かを順番に並べる作業をしてもらうと両者の違いがより明確になるようです。

「前後左右」を日常言語として使っている人たちは、自分を基準として左から右にかけて順番をつけて並べていきます。

その人の向いている方向によって、一人ひとりの並べ方は異なることになり全体としてのまとまりは全くありません。


「東西南北」を日常的に使用している人たちは、東から西に向けて順番をつけて並べていきます。

一人ひとりがどんな場所にいようともどんな向きを向いていようとも、すべての人が同じ並べ方になるようです。

どちらが優れているとかいう問題ではありません。


「人」を中心に置いた文化では個人としての人を基準とした相対的な表現方法や言葉が根付いていったのではないでしょうか。

文明が先進化すればするほど個人に対しての重きが増してきたことを表しているのではないでしょうか。

「自然」を中心に置いた文化では人も他の生物と同じように自然と言う大きな環境のなかにあるものとしての表現や言葉が根付いていったのではないでしょうか。


相対的な感覚は自分勝手な感覚とも言うことができます。

自分が基準になっているわけですから、他の人には同じ感覚を持ってもらうことは出来ません。


空間を把握する言葉はほとんどがそのまま時間を把握する言葉としても使用されています。

「前」「後」「長い」「短い」という言葉を使います。

これは日本語だけではなく英語をはじめとしたほとんどの言語で共通しています。

時間と言う目に見えないものを表現するときに、空間にある物を把握するのと同じ方法を採っていることになります。


日本語において実感として理解できるのは相対的な感覚です。

「21015年11月30日」と言うよりも「昨日(きのう)」と言った方が時間的な感覚が身近ではないでしょうか。

「昨日」は「今日」という相対的な基準があるから言えることであり「2015年11月30日」が「昨日」であり得るのは「今日」限りのことになります。


「西」と言うよりも「右」と言った方が実感があるのもより自分に近いものとして感じることができるからです。

同じことを表現するにもたくさんの言葉を持っている日本語では、言葉の使い方や表現によってどのような実感を与えることができるかの工夫の余地がたくさんあることになります。

絶対的な基準に基づく表現は正確性に優れるかもしれません。

しかし、必ずしも受け取る側に対しての実感として迫っているものとはなっていません。


相対的な表現を上手に使うことによって実感を味わってもらうことが可能になります。

人によっては「昨日」を「きのう」というよりも「さくじつ」と言った方が実感の伴う人もいることになります。

実感としては「地球は回っている」よりも「太陽は回っている」なんですね。
(参照:事実よりも実感で「わかる」


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