2015年10月22日木曜日

カタカナの実用性、ひらがなの芸術性

原本が現存する平安以前の史料はほとんどありません。

その成立は写本によって確認されたか推測されたものばかりになります。

その中でも最も写本の数が多いと思われるものが『古今和歌集』ではないでしょうか。


残っている写本から推測される全体像は本編二十巻に「真名序」「仮名序」を加えたものであろうと言われています。

「切」(きれ)と言われる部分的に残っているものまでを合わせえると三十以上の写本が確認されています。

「切」には句のほんの一部が書かれたちぎれ残った紙の一部や切れ端と思われるものまであります。

写本にはその筆者の名前が書かれていることがほとんどありません。

反対に部分的なメモのようなものには覚えとして日付や写した者の名前がある場合もありますが、全体を写し取ったものと思われる写本には筆者の名を見ることは出来ません。


当時は紙も貴重なものだったと思われますので、手習の練習として使われたと思われるものは裏にメモ書きがあるものがたくさんあります。

書かれている内容によっては表と裏のどちらがメインであるか分からないものもたくさんあるようです。


能書家と呼ばれるような美しい文字を書くことは貴重な能力とされていたようで、様々な史料に能書家による写本が螺鈿などが施された文箱に収められて貴重な贈り物として使われたことが書かれています。

その中でも『古今和歌集』は人気のある評価の高いものであり、小野東風、藤原行成、藤原公任、藤原佐理らの手による写本はたとえ一部であったとしても最高の贈り物として扱われていたようです。

中には紙そのものにも金粉が施されたような写本もあり始めから贈答用として作成されたものもあります。



時代的にはひらがながほぼ現在使われているのと変わらない形になってきており、連綿体と言われるつづき文字として書かれるようになったころです。

これらの写本は書の手本としての役割も大きかったと思われます。

こどもに授ける最高の教育は『古今和歌集』の読み書きと暗唱であったことがさまざまな書物から伺うことができます。


書としてはひらがなの前にカタカナを習ったという記述も残っています。

『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」(平安後期成立)には、主人公の少女が和歌を書き記す場面に 「仮名はまだ書き給はざりければ、片かんなに」とあります。

当時仮名の習得がまず片仮名から始められ、 次いで平仮名に進んでいったことがわかるのではないでしょうか。

平仮名が美的鑑賞としての品格を要求されるのに対して、片仮名は実用的であったことを物語っていると思われます。


カタカナの役割は文字としてよりも漢語を読み下す(訓読する)ための訓点などと同じ記号として扱われていたのではないでしょうか。

語尾の変化や助詞を補助的に記入したり、読み仮名として利用したりしているうちに音韻の体系として出来上がっていったと思います。

見た目の美しさを求めて書かれた文字がひらがなであり、音としての仮名の使い方を築いていったのがカタカナであったと思われます。


五十音における母音を軸としたマトリクスとしての考え方はカタカナによって作り上げられてきたものです。

漢語を読み下すための学術記号といった位置付けではなかったかと思われます。

見た目よりも実用性を重視したものと言えると思います。


対してひらがなは見た目の美しさを突き詰めていったものと思われます。

ことばとしての表現技術を磨く場ともなった和歌においては、ひらがなで書くことが基本ルールとして確立されました。

同じ感覚でひらがなが並んだのでは読みにくいものとなってしまいます。

連綿体としてつづき文字にしたり、句の切れ目にあたるところではわざと隙間を開けたりする表記上の技術も進んでいきました。

紙面の隙間との取り合いや、分かち書きなどと言われる技法なども芸術性を求めるところから生まれてきたと言えるでしょう


美しい文字を書けることはそれだけで大変な能力だったわけです。

能書家(手練れ)として名が通るようになると、何を書いても手習の手本として利用されるようになります。

そうはいっても、書くことが求められるものが増えますので好きなことを書くこともできにくくなっていたと思われます。


遣唐使の中止以降は文字としての発展は独自の形で進んでいきますが、技術や科学の分野では圧倒的に中国の文明に頼ることが多くなっています。

そのためには漢語が必要でありカタカナが必要になります。

より高い文化持って渡ってきた帰化人たちとのコミュニケーションも漢語の方が有効であったことでしょう。


日本語を表現することを特に意識した場合でない限りは、先進の分野においてはカタカナが必須の道具であったと思われます。

日常の生活においては「やまとことば」ですので、特に文字を必要とすることはなかったと思われます。

これは現代での生活でも同じではないでしょうか。


何かを記す必要があるときに文字がいるのであって、日常的に文字を必要としている環境は仕事として記録を残すことを行なっている人くらいであったと思われます。

多くの人が文字として一番身近に触れるものが和歌であったと思われます。

和歌が教養としての地位を確固たるものとしていくのは、文字として表記することの美しさを評価するようになったことと無縁ではないと思われます。


筆者が書かれていない写本から筆者を特定する作業はとても大変なことになります。

筆者と思われる人が残した他の史料がないと比較するものがありません。

書き方の癖から特定するしか方法がありません。


したがって写本についてはどうしても「伝紀貫之筆」として紀貫之が書いたと伝えられているという枕詞が付くことになります。

その史料だけを調べてみても特定することは不可能なのです。

まさしく時代考証となるのではないでしょうか。


個性が見えその美しさが評価されるひらがなだから特定することも可能だったのではないでしょうか。

個性が見えにくいカタカナではさらに難しいことになると思われます。


ひらがなは芸術性を求めて発展していきますが、その基盤にはカタカナによる論理的な裏付けが継続されていったのです。

実用的なカタカナによって構築された技術基盤によって、芸術性や見せることに集中することができたのがひらがなだったのではないでしょうか。

カタカナによる基盤の上に開いたのがひらがなによる芸術性ということができると思います。


明治期に一気に新しく世界の先進文明を取り込んだ時に、あたらしい漢字の言葉をたくさん作りました。

明治期の技術開発や研究は漢字カナ交じり文としてカタカナが中心でした。

論理的なことはカタカナが中心でした。


やがて、それなりの文化技術的な基盤が整ってくると、漢字かな交じり文としてひらがなが標準的な表記になっていきます。

ひらがなによる情緒的な芸術的な表現が文学として大きく花開いていきます。

平安期のカタカナとひらがなの関係に似ていませんか。


いままた、カタカナに触れる機会が増えてきているように思われます。

外来語に触れる機会が増えてきているように思われます。

なにか、基盤的なことの再構築が求められているのかもしれませんね。