一説では、広辞苑一冊にも相当する20万語を越える新しい言葉が生み出されたとも言われています。
(参照:和製漢字のチカラ(1))
現代の私たちが使っている漢字のほとんどがこの時に生まれたものと言われています。
また、これらの漢字が本家の中国にわたって、彼らの文化の発展にも貢献したことは、中国人にとっても馴染みやすい言葉となっていたのではないでしょうか。
この時に導入された文化や技術のほとんどはヨーロッパのものであり、のんびりと彼らの文化に馴染んでいる余裕はありませんでした。
幕末の開国後は、一日も早くあらゆる面での国力をつけなければ、ヨーロッパ列強の植民地としての草刈り場になるところでした。
彼らの抵抗できるだけの国力を緊急でつける必要があったためにとられた富国強兵策はあらゆる分野に及びました。
国体の再構築から民主主義としての運用など初めてのことばかりであり、模倣することから始める以外にはありませんでした。
この時に導入されたヨーロッパの文化と言語が、目標指向型のものだったのです。
(参照:目標指向と状況対応)
外からの侵略や影響を受けることのなかった日本語と日本文化は、隣国とも全く異なった文化と言語を醸成してきました。
時として書物等で外国の文化や言語に出会うことがあっても、それを取り込んでは自分の文化や言語として昇華してきたのです。
結果として、世界のどことも関連性の少ない独自の文化が継承されてきました。
これに大きなくさびを打ち込んだ史実が明治維新です。
一日も早く国力を付けるためには、鎖国の間に大きな開きができてしまったヨーロッパの文化技術を模倣して取り込むしかなかったのです。
それは、国体の再構築から教育、思想にまで及んでいきました。
それ以前の日本語が持っていた基本的な感覚としての性格は、状況対応型のものです。
新しい言葉として、数多くの目標志向型のものが生み出されていきました。
その多くは、名詞として生み出されたものです。
目標志向型の言葉を状況対応型の言語で使うという、不思議なことを行なうことになったのです。
どうしても適切に表現できないことが増えてくるのは仕方のないことだったと思われます。
150年以上を経過して淘汰されてきた言葉もたくさんあるのではないでしょうか。
(参照:100年たって微妙なずれが現実に・・・)
目標志向型の文化や言語の感覚を、状況対応型で理解しようとし表現しようとしたのです。
根本的に相いれない部分が多いものを、まずは理屈抜きでそのまま使えるものにしなければならなかったのではないでしょうか。
初めのころは目新しさ物珍しさも手伝ってそれほど意識されることもなかったものが、少し落ち着いてくると使い方や考え方で矛盾を含んでいることが表面化してきたと思われます。
やがて社会の仕組みや教育などの基本的な事柄のほとんどが、彼らの文化や技術の模倣によって定着していきます。
そこには、目標志向型の感覚が溢れていることになります。
目標志向型の気質を持った者は適応しやすかったのではないでしょうか。
ところが使用している言語は状況対応型の言語である日本語なのです。
いかに目標志向型の言葉を生み出したからと言っても、文の持っている基本構造や言語の持っている性格は完全な状況対応型なのです。
状況対応型の言語で目標志向型の感覚を理解することはとても難しいことになります。
もちろん、その反対も同じことになります。
結果として、理解することよりも丸暗記によってとにかく覚えてしまうことが優先されることになります。
理解することよりも、とりあえず使えることの方が重視されていますので、使い方を丸暗記することになるのです。
理解しようとして深く考えてしまうと、根本的な矛盾をたくさん含んでいるから仕方がないのです。
伝える方も伝えられる方も、根本的な矛盾に対しての違和感を感じながら行なうことになります。
違和感を感じさせる前に、ノウハウ的なことだけ覚えこませてしまうことが中心になります。
教育においてもい同じことが行なわれてきたのではないでしょうか。
現代日本人のノウハウコレクター的な傾向やストレスを抱えつつも言われたことは行なうといった傾向は、まさしくこの矛盾が現実化していることではないでしょうか。
福沢諭吉、西周、夏目漱石ら明治期の文化人は数多くの言葉を生み出してきました。
恐らくは、必死の思いではなかったかと思われます。
その結果は、今私たちが享受している環境だと言えるでしょう。
しかし、その結果もたらされた文化感覚的なギャップは常に根底に存在していたのではないでしょうか。
真面目な日本人は、理解しようとすることよりもまずは覚えて使えるようにしようとすることを優先します。
ある意味では、きわめて現実的であるとも言うことができると思います。
その結果、違和感や「?」があったっとしてもそのまま取り込むことに抵抗が少なくなっています。
そのことによって、矛盾を内在したまま取り込んでしまっているのです。
理解することよりも覚えこむことを優先させてきた結果、身についてしまった傾向と言えるでしょう。
状況対応型の感覚が、もっと前面に出てきてもいい環境になってきたのではないでしょうか。
本来の人が持っている気質においては、ほぼ半分ずつのはずです。
さらに言語が状況対応型ですので、感覚としては状況対応型の方が馴染みやすいはずなのです。
それなのに、社会の構造から教育や企業経営までもあらゆることが海外文化の模倣としての目標志向型で作られてきてしまっているのです。
世界で一番ストレスを抱えた人の率が高い民族としての最大の原因ではないでしょうか。
メンタル的なケアがやたらと広がっているのは、個人の問題ではないと思われます。
少しずつではありますが変化が起きてきているようです。
一種の自然淘汰、自己浄化ということでもあるのではないでしょうか。
しばらくは注目したいことですね。