これは言語が成立して以来の長い歴史を通じてもほとんど変わることがなかったのです。
英語における一人称の代名詞であるは「アイ」 は、英語が独立した言語として成立して以来変わっていません。
フランス語の「ジュ」、ロシア語の「ヤー」も同様です。
二人称や三人称の言葉も同じような事情だと思われます。
英語にはシェイクスピアの時代くらいまで、二人称として「ザウ」という言葉が残っていましたが、これは英語がゲルマン系の言語から独立する過程でみられた過渡的な現象だったと言われています。
「アイ」も「ジュ」も「ヤー」も、これらすべての言葉は共通の祖語から枝分かれしたものであることが分っています。
ヨーロッパ語系の民族は非常に多くの数に分かれていますが、民族を民族として確立させるための主な指標は言語であると言えます。
現在多くの民族によって分かれているその言語は、ヨーロッパにおいてはゲルマン諸族の間にあって、それぞれがもともと方言のようなものであったのが次第に独立した言語として発展したものが多くなっています。
従って、言語としての基本的な構造や性格はもともと兄弟言語としての方言程度の差しかなかったものです。
そのヨーロッパ系の言語の中でも人称代名詞は中核をなすものと言えます。
それは、単なる言葉としてだけではなく言語そのものの構造における主語の明確な役割にもよるものと言えます。
人称代名詞の重要性は、その代名詞が一人称、二人称、三人称によって動詞が変化することにも見ることができます。
主語である人称代名詞に重きがあるからこそ、それに伴って他の言葉が影響されるということだと思われます。
さらに言語によっては男性形女性形による変化までもある言語すらあります。
言語同士の区別を明確にしているのが、人称代名詞ということもできます。
人称代名詞が言語としての性格を決定づけているということもできるのではないでしょうか。
特にヨーロッパ系の言語においては、感嘆形以外にはほとんど主語が必ず必要になっている構造からも人称代名詞が言語の特徴を表していると考えることができます。
日本語の人称代名詞は、どれほどたくさんあるのかは数えることすらできません。
また、新しい代名詞も生まれてきています。
特に、一人称の代表格は、他の言語に比べるとその多彩さが目に付きます。
古代には、「あ」「あれ」「われ」などが一人称を表す代表的な言葉でした。
「ぼく」は「僕」のことですが、自分を卑下する言い方として江戸時代に広がったものだと言われています。
男子の言葉として使われていました、女子でも使うようになっていったのは最近のことでしょうか。
「わたし」あるいは「わたくし」は、もとは「おほやけ(公)」に対しての「私」を表す私的なことに対しての普通名詞でした。
これが一人称代名詞として使われるようになったのは中世以降だと言われています。
「わし」はこの「わたくし」が変化し簡略化したもので、「あっし」、「わちき」、「あたし」、「あたい」などの変形も使われました。
また、「おれ」は「己」が簡略化した言い方ですが、もともとは二人称として使用されていたものです。
当初は男女のいずれもが使っていたようです。
言語の構造として、述語が最後にくる日本語は、ヨーロッパ言語に比べると文全体が主語に影響を受けることが極めて少なくなっています。
さらには、主語が省略されることの多い日本語は、ほとんどの場合は目に見えない主語として発言者がいることが多くなっています。
一人称の多さは、環境によって微妙に変わる自分の立場を表しているものでもあります。
絶対的な「個」を基準としたヨーロッパ型言語の持っている感覚とは大きく異なるところとなっています。
どの様な環境であろうとも「アイ」しかない英語は、誰にとっても絶対的な一人称「アイ」が基準となるものと思われます。
彼らから見ると、環境によってめまぐるしく変わる一人称の変化は、共通価値観としての絶対的な主体者の欠落と映ることにもなります。
彼らの言うところの曖昧さはこんなところからも感じられていることではないでしょうか。
世界一豊かな人称表現は、一面では曖昧さの象徴でもあります。
絶対的な個人主義が日本語の感覚には合わない理由でもあります。
いろいろな面にいろいろな現象で現れてくるのでしょうね。
古代には、「あ」「あれ」「われ」などが一人称を表す代表的な言葉でした。
「ぼく」は「僕」のことですが、自分を卑下する言い方として江戸時代に広がったものだと言われています。
男子の言葉として使われていました、女子でも使うようになっていったのは最近のことでしょうか。
「わたし」あるいは「わたくし」は、もとは「おほやけ(公)」に対しての「私」を表す私的なことに対しての普通名詞でした。
これが一人称代名詞として使われるようになったのは中世以降だと言われています。
「わし」はこの「わたくし」が変化し簡略化したもので、「あっし」、「わちき」、「あたし」、「あたい」などの変形も使われました。
また、「おれ」は「己」が簡略化した言い方ですが、もともとは二人称として使用されていたものです。
当初は男女のいずれもが使っていたようです。
言語の構造として、述語が最後にくる日本語は、ヨーロッパ言語に比べると文全体が主語に影響を受けることが極めて少なくなっています。
さらには、主語が省略されることの多い日本語は、ほとんどの場合は目に見えない主語として発言者がいることが多くなっています。
一人称の多さは、環境によって微妙に変わる自分の立場を表しているものでもあります。
絶対的な「個」を基準としたヨーロッパ型言語の持っている感覚とは大きく異なるところとなっています。
どの様な環境であろうとも「アイ」しかない英語は、誰にとっても絶対的な一人称「アイ」が基準となるものと思われます。
彼らから見ると、環境によってめまぐるしく変わる一人称の変化は、共通価値観としての絶対的な主体者の欠落と映ることにもなります。
彼らの言うところの曖昧さはこんなところからも感じられていることではないでしょうか。
世界一豊かな人称表現は、一面では曖昧さの象徴でもあります。
絶対的な個人主義が日本語の感覚には合わない理由でもあります。
いろいろな面にいろいろな現象で現れてくるのでしょうね。