それでも、敢えてこのように言われることで改めて考えることができると思います。
文化とは文字化されることによって初めて文化として成り立っていくのではないでしょうか。
文字がなかったころには文化がなかったということでもあるのでしょう。
文化とはとても抽象的な言葉であり、誰かに説明をしようと思ってもなかなかうまく説明できない言葉です。
このブログでよく取り上げている「現代やまとことば」として表現するにはとても難しい言葉の一つでもあります。
(参照:「現代やまとことば」を使おう)
どのように「現代やまとことば」で表現するかによって、その人にとっての文化がどのようなものかがよく分かるのではないでしょうか。
文字化するということは、アウトプットするということでもあります。
つまりは、話しているだけや人の頭の中にあるだけでは文化とはならないということになります。
また、文字化するということは他の人の目に触れて、共有されて評価の対象になるということでもあります。
文字化されたことによって記録されることになり、誰でもが同じ条件で触れることができるものとなります。
文字化されていることによって、そのことに対しての解釈が始まることになります。
その文字や言葉に触れた人が、すべて同じ解釈をすることはありえません。
様々な解釈がなされることになるのではないでしょうか。
このことが文化に触れるということではないでしょうか。
文字化されたものに触れて、それを自分としてどのように解釈するのかが文化との接点ではないでしょうか。
そしての自分の解釈を、また文字化していくことによって文化が継承されていくことになるのではないでしょうか。
そのように考えると、最初に文字化されたオリジナルのものの大切さが浮かび上がってきます。
どの様に解釈するのかは解釈する側の自由ですが、その解釈が文字化されることによって影響力が出てきます。
人によって持っている影響力の強さや分野が異なります。
場合によっては、オリジナルよりも強力な影響力を持った解釈も登場することになるでしょう。
オリジナルに対する敬意は誰しもが持っているものです。
そこには、最初であるということだけではなく最初であるが故に多くの批判や解釈に晒されるリスクも含まれています。
場合によっては、そのオリジナルによって実質的な圧力や迫害を受けることもあり得ます。
目新しさだけではなく、そこまでの勇気を内包しているからこそオリジナルが敬意を持たれるのではないでしょうか。
誰が初めに文字としたのかはとてつもなく大きな功績であると思われます。
金言、格言、名言などと言われるものがありますが、これも一つの文化ということができるのではないでしょうか。
さらには、これらの金言、格言、名言を解釈するのも一つの文化と言えるでしょう。
パクリを取ってみても、そのパクリが表現されているものを見れば、オリジナルに対しての敬意が払われてるのかどうかは容易に見て取ることができるのではないでしょうか。
オリジナルに敬意の払われていないパクリは、見ていて気持ちの悪いものになります。
反対に、オリジナルに対して敬意の払われていることを感じることができるパクリは、そこに文化を感じることができるものとなっているのではないでしょうか。
言い方を変えれば、オリジナルに敬意を払えることが文化度の高さを表すことになるのかもしれませんね。
日本語は、同じことを表現するにもとても豊かな語彙と表現方法を持っている言語です。
それだけに、自分の解釈によってオリジナルを書き換えてしまうことが簡単にできるものとなっています。
金言、格言、名言は、本人に限らず誰かによって文字となった時に、文化となる可能性が出てきます。
ひとたび文化となれば、それに触れて影響を受ける人が出てくる可能性が生まれてくるのです。
好意的な影響だけとは限りませんし、批判や否定も立派な影響です。
自由にこれらのことが行なえることが素晴らしい環境であると言えると思います。
自分の解釈や批判だけで文化にしていこうという活動が多いような気がしています。
オリジナルに対しての敬意が薄れているのではないでしょうか。
自分の意見や解釈を述べる時には、しっかりとオリジナルを忠実に再現してから行ないたいものです。
ほとんどの対立は、オリジナルを共有することができていないから起きているのではないでしょうか。
対立が起きた時には、お互いがオリジナルを再現してみることが大切だと思われます。
かなり違ったものが再現されるのではないでしょうか。
そもそも違うオリジナル(文字)について起きている対立の可能性の方が高いのではないでしょうか。
あらゆる文化に触れる機会が増えてきています。
あらためて文化について考える機会を与えてくれた言葉でした。
文化とは文字化することである。
あなたの解釈もアウトプットしてみませんか。