2015年6月23日火曜日

清少納言も嘆いた日本語の乱れ

日本語の乱れについては、近年ではもう当たり前のこととして思われているのではないでしょうか。

一時は、学校教育や国語政策においても懸念されていましたが、今ではすっかり聞くことがなくなりました。


乱れというからには、何かしらの基準が存在してそれからずれているから「乱れ」ということになるのではないでしょうか。

では、日本語の乱れと言われる「乱れ」の基準はどこにあるのでしょうか。


日本語というのは、英語やフランス語などという言語と区別するための言語の分類としての表現であり、日本語という規定がある言語のことではありません。

日本語全体としては、そこにある種の法則性を見つけることは可能であったとしても、絶対にこうでなければ日本語とは呼ばないと言ったようなものはありません。

日本語のなかで一番厳しいルールによって縛られている言語は、国語ではないでしょうか。


学校教育の教科として存在している国語は、国語としてのルールを持った言語となっています。

一般的な語法や言葉の意味とは異なって規定をされていようとも、国語としてはそちらの方が優先されることになるし正しいのです。

文法(言葉の使い方)や語彙(言葉の意味)について規定をされており、それ以外の用法や意味としては国語としては正しいものではないことになるのです。


したがって国語は、日本語の中でも文法や語彙が厳しく規定された特別な言語ということができます。

そしてこの国語は、日本語使用者にとっての共通語としての役割を持った言語となっています。

義務教育としての国語を身につけることによって、母語としてどんな日本語を持っていようとも共通語として理解することができるようになっているのです。


日本語の乱れについては、清少納言も「枕草子」のなかで嘆いている部分があります。

なに事を言ひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにせんとす」といふ「と」文字を失ひて、ただ「いはむずる」「里へいでんずる」など言へば、やがていとわろし。

現代で言うところの「ら」抜き言葉と共通する内容であるようにも思われます。


この時代においても後世に伝わる書物のなかで、言葉の乱れが指摘されていることに驚きを隠せません。

すでに、ある程度の文法なり語彙なりが確立していたということの裏返しになるのではないでしょうか。


「枕草子」そのものは、平安中期の清少納言によるものとされていますが推測の域を出ておらず、確認された歴史的な事実ではありません。

写本が多く存在しており、一番古い写本は鎌倉時代のものが現存しているものとなっています。

数多くの伝本が存在しており、伝本によって内容もかなり異なったものとなっています。


それだけ多くの伝本や写本が存在することからもわかるように、「源氏物語」と双璧をなす文学の対象として扱われてきています。

短くて親しみやすい文章も手伝っていると思われ、現代においても多くの文学者の研究の対象となっている作品となっています。


最初に書いたように、言葉の乱れとは基準になる言葉がしっかりとしている場合に言えることになります。

言語においては、常に新しい言葉が生み出され使用法においても変化していきます。

それを「乱れ」と呼ぶのかどうかということではないでしょうか。


変化していくことを当たり前であると考えることができれば「乱れ」とは言わないのではないでしょうか。

清少納言は文字を省略することを「いとわろし」と指摘しています。

そこには、省略する前の言葉に対しての正当性や敬意すら感じないでしょうか。


特に清少納言は中宮定子に使える身として、朝廷でも身分の高い環境にいた者です。

言葉としては、一般よりも厳しく目を向けていた環境ではないでしょうか。

だからこそ、言葉の使い方に対して気になったのではないでしょうか。


「枕草子」の言葉は短くてわかり易いとされています。

後世の国学者たちからもそのように評価される内容は、宮中の独特の言葉だけで作られていないからだともいえると思います。

時代とともに変化していくものとして捉えたほうが良いのかもしれません。


若者たちが次々と生み出す新しい言葉が、分からないものが増えていくことは時代からずれ始めた証なのかもしれませんね。

決して悪いことではないと思いますが、さびしい思いがするのは仕方のないことなのかもしれませんね。


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