2015年6月24日水曜日

漢字は外国語

漢字はギネスブックにも掲載されている、現存する言語で最古のものとなっています。

甲骨文字にその起源を見ることができ、そこからの変化も容易に想像することができるものとなっています。

ヒエログリフや楔形文字も古代文字として発見されていますが、現存する言語文字へとつながっていることが確認できていません。

現存する文字とほとんど同じものを見つけることができる甲骨文字から漢字への流れの自然さに比べると、現存するものとは言い難いものとなっています。


また漢字は、世界最も多くの人が使用する文字となっています。

中国が含まれるのですから当たり前とと言えば当たり前なのですが、その割には世界における公用語や共通語的なものとはなっていません。


明治維新において新しい漢字や漢字を使った言葉を多く生み出した日本語は、現代中国の文化を支える漢字の20%程度を逆輸出したと言われています。

和製漢語と言われるこれらの言葉がなければ、中国の近代化はなかったとまで言われています。

漢字を生み出したのは中国だが、漢字を使いこなしているのは日本だと言われる理由の一つとなっています。


日本語における漢字はひらがなと組み合わされた時に初めて意味を成すようになっています。

ひらがなを伴わない漢字は、まさしく漢語であり文法そのものが違ってしまいます。

日本と中国で使用している漢字は日常的なものでは1,000語以上が共通したものとなっています。

それでも理解できないのは、文法が違うことによって語順が違うために意味の分かる文にならないということです。


日本語として意味の分かる文になるためには、ひらがなで理解しないとできません。

漢字だけで理解することは不可能なのです。


漢語という異文化を導入して日本語ができたことに間違いはありませんが、漢語をそのまま日本語として使用したわけではありませんでした。

漢語の持っている音を利用して、今までに持っていた独自の言語である「古代やまとことば」を表記する方法を考え出したにすぎないのです。


異文化を学ぶために漢語を理解する必要があったために、漢語で書かれたものを理解できるようにはなりました。

しかし、日常的な言葉や生活語が漢語になったわけではありませんでした。

文字を持たない口頭言語として「古代やまとことば」がすでに出来上がっていたのだと思われます。

そして、その言語は歌をも持っていたのだろうと思われます。


文字を持たない言語が、漢語を利用することによって「古代やまとことば」を表記する文字を定めていきます。

やがてこれが簡略化されて「かな」として使用されるようになっていくことになります。

日本が伝統的に持っている言語としての表記文字は「かな」なのです。


ただし、「かな」の原型が漢語であり、漢語が使われていたのが「かな」よりも早い時期だったために「漢字+かな」が日本語であるかのような錯覚を持ってしまっていたのです。

やがて、仮名だけでは読みにくさが出てしまいます。

話し言葉では伝わっても、文字で書いた「かな」では意味が伝わりにくいものや同じ文字でも複数の意味を持つものなどが出てきました。

それをより正確に表記するために、違いをはっきりとさせるために固有の文字としての漢字を当てはめるようになったと思われます。


したがって、漢字は英語やフランス語などの他の外来語と同様に、似た音の他の言葉と区別するための記号ということができます。

「たつ」という日本語がありますが、より明確にするのであれば「立つ」「絶つ」「経つ」「発つ」などの漢字を使うことで意味を限定(固有化)できるのです。

漢字が表意文字であり、文字によって意味を限定することができる性格を持っていることが表記文字として向いていることになります。


「かな」は文字そのものに意味を持たない表音文字となります。

結果として話し言葉が主体になることになります。

同音異義語がこれだけたくさんありながらも、それなりの意思の疎通ができるのは、「漢字+かな」の共同作業だからではないでしょうか。


日本語の基本的な感覚はすべて「かな」の中になります。

「かな」による表現を学ぶことによって日本語の基本的な感覚に触れることができます。

いわゆる「ひらがなことば」です。


明治までの日本語は、ひらがなが主体であり漢字が補助というスタイルであったと思われます。

幕末には外国文化が多く流れてきており、それに対応するための漢字が使われ始めています。

江戸期においても、一部許されていたオランダとの交易を担当した部署などでは盛んに漢字が使われていました。


それは音としての彼らの言葉を表記するのに漢字の方が都合がよかったからです。

この経験があったから、明治期に一気にあれだけの外国語をとりあえずの日本語として取り込むことができたのではないでしょうか。
(参照:日本語にとっての明治維新

日本語にするための道具としての漢字を使い慣れていたということができるのではないでしょうか。


現代では、あまりにもひらがなに対しての態度が無頓着すぎるのではないでしょうか。

日本語の基本中の基本はひらがなです。

簡単ですがとてもよくできています。


ひらがなで理解できていないことは、日本語として理解できていないことでもあります。

ひらがなで説明できないことは、説明している側が理解しきっていないことでもあります。


いろいろな外国語が 日本語に混ざってきました。

いろいろな分野が細分化されて、専門用語がどんどん増えてきました。

いろいろな世界との接触が増えてきて、聞いたこともない言葉が増えてきました。


日々新しい言葉が生まれています。

ほとんどが名詞としての新しい呼び方にすぎません。

その言葉の使い方は、日本語として理解していなければ使うことすらできません。

つまりは「ひらがな」で理解することになります。


私たちはいつも「ひらがな」で理解していたんですね。

漢字を外国語として見ることが、日本語を理解することにつながるのではないでしょうか。

漢字をひらがなで説明することがきちんとできることで、その漢字を使いこなせることができるようになるのではないでしょうか。


何気なく使ってしまっている漢字に、なんとなくわかっているものとして誤解をしていませんか。

今使っている漢字は、ひらがなで説明ができますか。


文の構図も言葉自体もあやふなな要素をそのまま持っていけるのが日本語です。

あやふななまま理解できてしまうのも日本語です。

そこが良いところでもあり精度に欠けるところでもあります。


漢字、カタカナ、アルファベットがやたらと目につくこの頃は、ひらがなを見るとホッとするようになりました。

書くことよりも話すことでホッとすることが多くなりました。

日本語の感覚を生かすのは「かな」にあることが実感として分かりつつあるのかなと思います。

たまには「かな」を意識してみませんか。