(参照:気づかなかった日本語の特徴)
世界の現存する言語のなかで、その起源において系統を共有することのない言語界の孤児ともいえるのが日本語となっています。
他の言語話者から見た時に、一番わかりにくいのがすべてを語ることや説明することを良しとしない感覚です。
一を聞いて十を知る、以心伝心、行間を読む、阿吽の呼吸などは言葉を少なく伝えたほうが良しとされる内容を含んだものとなっています。
言語で伝えることをすべてと考える、欧米型の言語感覚とは大きな違いとなっているところでもあります。
さらに彼らが戸惑うことに、自分の意思を明確に表明しないことがあります。
これは日本語が古代より持ち続けている大きな特徴であり、古事記にも触れられている「ことだま」「ことあげ」にも見ることができます。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化)
自分の意思を表明できる相手は神だけであり、その伝え方も直接的ではなく山川草木の自然に現象として伝えるものとされてきました。
だから、神の声を「ことだま」として自然の中に聞かなければいけなかったわけです。
いまだに、自分の意思を明確に表明することは、感覚として決して良しとはしないのが日本語です。
その代り、相手の明確に表明されない意思を言語以外の環境からも読み取ろうとする技術を磨くこととなるのです。
日本語の基本感覚は、伝えることよりも読み取ることにあるのです。
それは、単に文化や環境の伝承といったものではなく言語そのものにもその要因があります。
あまりにも多くの言葉を持ちながら、漢字、かな、カナ、アルファベットなどの表記文字の多さや自由すぎる文法によって、言語そのものを使えるまでにかなりの習得期間を必要とすることがあります。
中学を卒業しても日刊紙の新聞を読めるだけの日本語を習得していないのが現実です。
あらゆる知恵とルールを書物や講義などから読解することによって身につけていくことになるので、どうしても表現したり説得したりする技術の習得が後回しになるのです。
そのために、学校教育における国語の内容も漢字や言葉の解釈を中心とした読解が重視され、試験においても読解力を確かめるためのものがほとんどとなってしまうのです。
日本語の基本スタンスは、説得することにはありません。
相手の言っていることを読解することになります。
しかも、相手は言語で意思を表明することがとても下手なのです。
日本語のコミュニケーションは、お互いの上下関係や強弱関係が明確にならないと分かりにくいものになってしまいます。
外国のように仲間として同じ理解をし合うという感覚がありません。
上下関係の上の方が曖昧な形で意思を伝えることによって、下の方が一生懸命にそれを読み解こうとします。
明確な意思ではありませんので、あらゆることを推測しなければなりません。
そのために、可能性として様々なことを同時に扱わなければならなくなります。
日本語の持つ感覚としての、優先順位のつかない複数の選択肢を同時の持っていないと不安になることがここからも読み取ることができます。
(参照:日本語の基本構造)
上からは言質を取られないような、いつでも責任回避ができるような曖昧な意思表示がなされ、下のほうはそこから可能なことを読み取ることになります。
あまりにも選択肢が多くて選びきれない場合には、上に対してお伺いを立てると言うことになります。
日本語は、常に上に立つ者が都合の良いようになっているのです。
いろいろなことを学んで理解して行うのは下のものなのです。
下は下で、上下関係が成り立っていくのです。
説得する必要はないのです。
解釈が違えば、「行間の読めないやつ」と言っていればいいだけなのです。
読み取ろうとする力は付きますが、説得する力がないのが日本語です。
お伺いを立てるのが一般人であり、曖昧な形でも意思を表明できるのはお上だけなのです。
最近では、明確な上下関係が薄れてきています。
上司の命令を聞かない部下も多く現れるようになりました。
説得に慣れていない日本人は、部下を説得することができないのです。
そうなると、「行間の読めないやつ」として愚痴を言うしかないのですが、それでは現実は何も変わりません。
自分たちは行間を読んで性格を考えて役職を考えて読解してきたかもしれませんが、今の新人にそんなことは必要ないのかもしれません。
論理性の乏しい日本語の構造では、説得するための日本語はとても難しいものとなります。
説得するための言語は、外国語に学ぶのが一番です。
一番身近な外国語は英語ではないでしょうか。
英語は説得言語です。
英語の持つ文の構図と論理性を学んで、言葉としての日本語に置き換えればいいのです。
外資に努めている人たちには、感覚的にこれを行なっている人がいます。
日本語の感覚で説得をしようとするととても難しいものとなってしまいます。
読解するための技術しか持っていないのが一般的な日本語教育を受けてきた日本人です。
日本語の感覚では、説得すること自体を諦めたほうがよさそうです。
英語教育の利点を説得技術としての言語技術に置くことができたら、更に有効なものとなるのではないでしょうか。