2015年5月15日金曜日

「は」(助詞)の支配力

外国人にとって日本語をわかりにくくしている理由の一つに、省略される語の多さが挙げられます。

環境依存度の高い日本語は、使われている環境が変わらない限りどんどん省略される語が増えていきます。

それでも、最後まで省略されてることがないのが述語です。


述語というと動詞を思い浮かべるかもしれませんが、決してそれだけではありません。

同じ環境で会話をしていると、最後は述語だけで会話が成り立っているような場面すらあります。

「どうする」「行く」「だれ」「おまえ」、これだけで会話が流れていることも決して少ないないのではないでしょうか。


これを会話されている言葉だけで、外国人が理解しようとすることはまず不可能ではないでしょうか。

彼らにとって特に大切で、外すことのできない役者が主語です。

しかし、日本語は主語が頻繁に省略されます。

日本語としては主語がない方が「ふさわしい」表現場面が沢山あります。


その代り、いったん登場した主語は思った以上の支配力を示すことになります。

主格を表す助詞としては「は」と「が」が中心ですが、一般的な使い方の違いについては以前にも述べたことがあります。
(参照:主格を示す「は」と「が」

日本語を学ぶ外国人にとっては使い分けにとても苦労する、一つの関門になっているようです。


日本語における一つの文の完結は述語の登場と句点をもって行われています。

句点の役割は、英語における文末のピリオドの役割と同じようなものと言っていいと思います。

主語は、一つの文における主役であり原則的には句点で区切られた他の文に影響することはないと思っていました。

英語では、文には基本的には必ず主語があるものとなっています。


日本語の文章を英語に翻訳するときに、日本語では省略されている主語を補うことが必要になります。

その時に作者が意図した主体とは異なった主語が当てられることがあります。

このことは、野内良三氏の「日本語作文術」にわかり易く書かれていますので、興味のある方は読まれることをお勧めします。

そこに取り上げられている例を一つ挙げてみます。

川端康成の「伊豆の踊子」の一説です。


はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。はしけが帰って行った。栄吉はさっき私がやったばかりの鳥打帽をしきりに振っていた。ずっと遠ざかってから踊子が白いものを降り始めた。


さて、三つ目の文である「さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。」この分の主語はいったい誰でしょうか。

同じ文の中に、主格を表す助詞の「が」を伴って「私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、」として主語の「私が」が存在しています。

たぶん多くの人が一番近くにある主語である「私が」あるので、「私がさよならを言おうとした」と読むのではないでしょうか。

実際に英訳本においてもそのようになっているものがあります。


しかし、この分の主語は「踊子」ともとることができます。

自然な日本語としては「踊子」とした方が、素直に読むことができるのではないでしょうか。

助詞の「は」を伴った主語は、文を越えてその支配力を発揮しているのです。

同じ格助詞である「が」には文を越えて支配力を及ぼす力はありません。

「が」を伴った主語をも凌駕してしまう支配力を持っていることになります。


その「は」の支配力は、どうやら直接・間接的に、次の「は」が登場するまでは支配力を継続しているようです。

その時の「は」も人についている「は」であり、物についている「は」はかなり弱いものとなっているようです。


強烈な支配力を持った「は」は、次に「は」が登場するまでは続いている文を支配しているものと考えることができそうです。

そうであれば、おなじ主語が支配している間は、主語の繰り返しは鬱陶しいものとなりますし、邪魔になります。

主語が省略される大きな理由が一つ見えてきました。


「は」と「が」については単なる役割の違い以外に、文を支配する力としての大きな違いがあったのですね。

そう思ってみると、次の「は」を伴った主語が登場する「栄吉は」の前の一文が気になりました。

「はしけが帰って行った。」は情景描写ですが、そこにどうしても「私」ではなく「踊子」の姿が浮かんでくる気がします。


直接文字に表現されていない主語が、文を越えて支配していることは一文を見ただけでは主語が分からないことをも意味しています。

ここにも行間を読むではないですが、書かれていないものを見るチカラが求められているのでしょうね。

教わらなくとも感覚としてこれらのことを身につけているのは、言語そのものが持っている感覚なのでしょうね。


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