言語には、それぞれの言語が継承されてくる間に形成されてきた独特の感覚を持っています。
その感覚は、その言語が継承されてきた歴史文化の環境によって作られてきたものです。
そしてその言語の感覚は、直接的な言語よりも言葉の使い方や非言語によって表現されており、ほとんど意識することなしに生かされているものだと思われます。
近代言語であるアルファベットを軸とする欧米型言語の場合は、極力曖昧さを排除し論理性によって理解を進めようとしますので、現実的な言語によるコミュニケーションに重きが置かれています。
それに対して、長い歴史を持つ言語や論理性よりも感性を重んじる傾向にある言語などでは、非言語の部分に本当の感覚が込められていることが多くあります。
特に、言語としての音の数が少ないものにおいては、多くの音数を持つ言語に比べると、直接的な言語で伝達できることが限られてくるので非言語による感覚のサポートがより必要になってくることになります。
言い方を変えてみると、言語に対する信頼性ということもできるのではないでしょうか。
直接的な言語による表現を重視する場合においては、録音による検証や契約書などの文書による信頼性を大切にします。
一方、感覚的な面を重視する場合においては、直接的な言語に対する信頼性が低いために、口頭による約束や契約書が存在していようとも絶対的な拘束力がないのが当たり前となっています。
前者の典型が英語であり、後者の典型が中国語と言えるのではないでしょうか。
前者の場合は「言った言わない」や「サインをしたしない」が争いの焦点となり、法律による統制によって解決できることが多くなりますが、後者においては極端な場合には法律があっても無視をされることになります。
それぞれの言語の中にある感覚は、それぞれの言語の歴史文化や環境によって異なってきていますが、それは何に対して生命の脅威を感じてきたかによるものが大きいと思われます。
(参照:自然とのかかわりで見た言語文化)
この湯に見てくると、日本語は、言語として持っている感覚のカバーする領域がかなり大きな言語であるということができます。
その典型として現れてくるものが、「一を聞いて十を知る」「行間を読む」「以心伝心」「目は口ほどにものを言う」「阿吽の呼吸」などの非言語による理解を重視する数々の表現があることです。
一歩間違えてしまうと、直接的な言語による表現の未熟さを隠したり誤魔化したりするためにも使われることにもなります。
また、これらの感覚があることによって、直接的な言語による表現の技術が磨かれていくことを必要としないことにつながっていく可能性も存在しています。
言葉ではこのように言っているが、その本音はここにあるということはよほど相手を理解していないとできないことになりますが、それを求めることが優位者の態度であると勘違いするようなことも起ってきます。
どんなに直接的な言語による技術を磨いたところで、日本語においては感覚としてのサポートが必要となっているのです。
しかもこの感覚は、日本語の原点とされる中国や欧米型の言語とは大きく異なっているから注意が必要になり、知っておくことが必要になるのです。
その感覚の違いは、英語との対比や自然とのかかわりなどにおいて頻繁に触れてきています。
(参照:日本語 vs 英語、日本語の感覚で対応する など)
先進文化を伴った先進経済圏においては、きわめて特殊な感覚となっているものです。
その感覚によって、学ぶことや改善することが得意となっているために、物まね文化から始まっても独自の改善によって日本品質を作り上げることとなりました。
今や、ノーベル賞の最も重要とされる自然科学の三分野における候補者には、ズラッと日本人が並んでいます。
その中には、国籍を移した人もいますが、共通しているのは母語が日本語であることです。
高度の思考は母語でしか行えません。
彼らの話す英語を聞いたことがあるでしょうか?
御世辞にもきちんとした英語とは言えないでしょう。
彼らは、その英語で英語ネイティブたちに講義をし指導をしているのです。
ジャパン・イングリッシュです。
日本語の感覚を持った英語なのです。
英語は世界の共通語としての立場を確保しました。
日本のなかであっても日本語だけで生きていくことは不可能になってきました。
世界の共通語としての英語には、何種類もの英語があります。
アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの代表的な英語であってもかなりの違いを持っています。
英語というカテゴリにおいては、表現が英語でありさえすればかなり懐の広いものとなっています。
そこに、ジャパン・イングリッシュが存在しても全く問題がないのです。
どの様な感覚で英語を使うかは、日本語の感覚を知っていることが大切になります。
高度の思考を日本語で行なってきた彼らの英語には、知らないうちにその感覚が反映されているのです。
日本語同士のコミュニケーションにおいては、暗黙のうちに日本語の感覚が存在しています。
その感覚を他の言語で伝えるためには、日本語の感覚を知っていることが大前提です。
日本語同士であっても、言語の持っている感覚を知っていることでさらに理解がしやすくなることは間違いありません。
直接言語よりも非言語による感覚が必要とされる日本語は、その感覚について理解しておくことが大切ではないでしょうか。