2015年3月20日金曜日

言語感覚を支えるもの

常に変化し続けるものに対して、その核にある不変のものを見つけようとする姿勢が学問を生んできたのではないでしょうか。

その根元には、解明し切れることのない生命の脅威に対して少しでも抵抗しようとする感覚があると思われます。

最大の脅威の対象が人である西洋文明においては、人が探求すべき対象となります。

そのために人についての核として不変なものを探求することになります。

論理的な面から不変さを追求したものが哲学であり、物質的な面から不変さを追求したものが医学となっていったのではないでしょうか。

このことは、同じく侵略の歴史を繰り返して、生命の最大の脅威として人を対象にした中国にも当てはまることだと思われます。


最大の脅威である理由の大きな要素は、その変化や活動が予測できない、わからないものなのに生命の危機にさらされることです。

だから、脅威は少しでも減らしたいものとなるのです。

そのためには、人間についての不変なものを探求し見つけることで、どんなときにも絶対に変わることのない理解をして対応しようとするのです。

しかし、どこまでいっても不変なものは見つからないのです。

その過程において、哲学や医学の発展につながり、少しずつ理解できることが増えてきているのではないでしょうか。


それでも人における不変さは見つからないのです。

知の活動として、その不変さを持ち人としてあらゆることを理解しコントロールできる存在として、神という概念を置くことになります。

最大の脅威が人である西洋では、神という至上の存在は人として存在することになります。


それに対して、日本における最大の脅威は自然でした。

激しく移り変わりながら、安定することのない激しい自然環境に神という存在を感じることになります。

見つけることが不可能な、自然における不変さを神という概念によって置き換えているのです。

それでも脅威を少しでも減らすために、自然の不変さを探求していったものが、暦であったり気象学となっていったのではないでしょうか。

神道においてはまさしく自然そのものが神であり、太陽であり月であり自然をシンボルとした神の名となっています。

これは、仏教においても同様であり、曼荼羅における数多くの仏につく自然のシンボルがそれを表していると思われます。


神自身が不変であり全ての自然をコントロールしていることになるのです。

西洋であっても日本であっても、神は不変であり万能なのです。

結果として、西洋においては人が至上であり、自然は人がコントローできる対象として理解することが可能なものとなっているのです。

日本においては、自然が至上であり、人は自然の一部として存在しています。

したがって、自然(環境)との関係において常に変化していることになります。


侵略による生命の危機の根深い歴史を持つ環境と、侵略の経験を持たない日本では、自然と人に対しての基本的な考え方が異なっているのです。

西洋においては自然は、利用するものであり探求することによって不変の確実なものを見つけることが可能なものとなっています。

その結果が、物理学や化学などとして発展し様々な法則や定理を生み出してきていると思われます。

それは、至上のものとして存在する人が、利用したり影響を与えるために必要なことを見つけ出していくことになると思われます。


日本においては自然や人はあるがままに受け入れるものとして探求の対象としては存在していないように思われます。

その中で、自然や人も変化しつづけていることに適応するために、自分自身をも変化させていくことに注力されていくことになるのではないでしょうか。

自身の力の及ばない環境に対して、自身を適応させることによって関係性を維持して共生を図っていくことになるのではないでしょうか。

脅威の対象は自然なのですが、自然をコントロールすることは出来ませんので、その自然に対して自分の意思でコントロール可能である自分自身を適応させることで共生を図ろうとするのです。


発展する方向が、外に向かっていくのが西洋型になり、自分の内側に向かっていくのが日本型と言えるのではないでしょうか。

自分から外に対して影響力を及ぼし、影響を与えることができる環境を増やして大きくしていくことが個人としての発展になるのが西洋型です。

日本型は、どのような環境であっても、またどんなに変化している環境にも適応できる自分を作っていくことが発展になるのではないでしょうか。


ここで言っていることは、あくまでも相対としての傾向のことを言っているつもりですので、対比する対象が変われば捉え方も変わってくると思われます。

このような感覚は、そのことを表現する言語の中にすべて感覚として受け継がれていることになります。

言葉の使い方やそこに込められたニュアンスにさえ、これらの感覚が反映されていると言えるのではないでしょうか。


言語にこれらの感覚が含まれているというよりも、それぞれの感覚を理解し伝えるために最適な感覚を持った言語として選ばれ作られ発展してきたと言った方がいいのかもしれません。

そうなれば、歴史文化や神に対する感覚などすべてのものが言語に反映されているのは当たり前のこととなります。

自分たちの持っている感覚を理解し表現するために最適な形に言語が変わってきていることになります。


文字のない時代の古代やまとことばを継承しながらも、世界の先端文明を取り込んで新しい言葉や表現方法を作り上げてきた日本語は、基本的な自然に対しての感覚の上に、欧米型の感覚を取り込もうとしてきたものと言えます。

その基盤となっている感覚は変わることなく継承されている仮名の感覚が引き継いでいるのだろうと思われます。


言語は変化していきますし、日本語も大きな変化を経験しています。

それでも、文字や言葉として残っている限り、その基本的な感覚は継承されていくのではないでしょうか。

言語の違いが、思考の違いや視点の違いを導いてくれます。

数多くの言語が存在することが、多様性の表れであり個性としての表れなのですね。

日本語による日本語の特性を生かした知的活動をしていきたいですね。



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