2015年2月23日月曜日

日本語の感覚に迫る(2)・・・自然への畏怖

先回は、生きていくための最大の脅威の対象が、欧米型言語の文化と日本語の文化では異なることを見てきました。

そこから見えてきたことは、欧米型言語の文化においては生きていくための最大の脅威の対象が人であり、日本語の文化においては、その脅威の対象が自然環境であることでした。
(参照:日本語の感覚に迫る(1)・・・生命の危機

どちらも、自分の力ではコントロールすることが不可能な脅威に対して、常に大きな不安を抱えていることになります。

具体的な危機への対応策や危機が現実となることを予測することなどのために、文化技術を発展させていくことで少しでも不安を解消しようとしてきました。


欧米型言語の文化においては、他者の侵略の脅威に対応するためあらゆるものを利用しようとします。

自然は、その利用しようとするものの最たるものということができるのではないでしょうか。

不安の原因は、現実としての脅威への適切な対処ができないことも大きなものですが、いつどのような脅威が現実になるのかわからない不安定さが、より大きなものとなっています。

その不安定さを払拭するために、あらゆる事に不変性を求めるようになります。

この不変性の探求が、欧米型言語の文化における推進力になっていると思われます。


その探求の対象は、哲学や医学としての人間であり、物理や化学などの自然科学となっていくことになります。

欧米型言語の文化における基本スタンスは、脅威や不安定さに対して不変性を見つけてコントロールをしていこうとするものではないでしょうか。

不変性を見つけた人間が中心となって、見つけた不変性を論理として周りの環境をコントロールしていこうとするものです。


一方、日本語の文化における不安の対象は、厳しい自然環境の変化による脅威です。

いつどこで何が起こるかわからない不安定さは、欧米型言語の文化における侵略の脅威と同様に、最大の不安の原因となっていると思われます。

日本語の文化では、この不安定さに対しての対応が異なり、不安定のまま受け入れて適応することによって解消しようとします。

自然環境をコントロールできるものとしては捉えていないのです。

人知の及ばないものとして、ある種のあきらめを持って受け入れることで共生していこうとするスタンスではないでしょうか。

神という概念に対する欧米型言語との違いも、ここからきていると思われます。


そこでは、人が中心ではなく自然が中心となり、人がその自然に適合していくことになります。

不安定に変化し続けていく厳しい自然環境をあるがままに受け入れ、そこで適応するために自分をコントロールしていこうとするものです。


欧米型言語の文化においては、個である自分を中心とし環境をコントロールしていこうとするものになります。

そのために対象における不変性を発見し、その論理を使ってコントロールしていこうとするものです。

これが学習することの基本スタンスとになっているとも言うことができると思われます。


日本語の文化においては、変化し続ける環境を中心として、変化に対して自分を適応させることによって共生していこうとするものです。

あらゆる知恵を使って、どんな環境の変化にも適応できるように自分をコントロールしようとすことになります。

どんな変化に対しても適応できる自分を作ることが、学習することの基本スタンスになっているのではないでしょうか。


現実に行なわれ続けられたこれらの活動は、具体的にはすべて言語によって行なわれており、長い年月をかけてその言語の持つ基本的な感覚となっているものです。

その言語を使っていること自体が、意識しなくとも言語が持っている基本的な感覚によって活動することになります。

ましてや、母語として身についている言語においては、普段の活動において意識することなく言語の感覚が現れていることになります。


自然に対する畏怖の感覚は、自己と周囲との関係においても具現化してきます。

周囲の環境を、常に変化している人知の及ばない絶対的なものとして捉えてしまう傾向になります。

人との関係においても、相手の存在自体が環境と同化してしまうことによって、どうしても相手を中心とした感覚になる傾向があるのです。


日本語を母語として持っていること自体が、基本的な感覚として自分を適応させることによって共生していこうというものになりがちなのです。

これを否定する必要は全くありません。

むしろ言語の持っている感覚に素直に従った方が、より質の高い言語活動につながりますし、ストレスをためることにもなりません。

また、このような傾向があることをわかっているだけでも、その感覚に逆らうようなことがあった場合に感じている不自然さや違和感を理解できることになります。


不自然さや違和感を感じながらも受け入れることは、日本語の感覚としては得意な活動になります。

ただし、一時的に受け入れているにすぎませんので、感覚的なズレは存在したままになっています。

そのことに対して適応できた自分が確認でき共生している感覚が持てないうちは、常にストレスの元を抱えていることになります。


コントロールする対象は自分になりますので、適応できない原因は自分にあると感じる傾向が強くなります。

どうしても適応できない環境よりも、自分の方に原因を探すことが多くなってしまうのです。

外に原因を探してコントロールしていこうとする欧米型言語の感覚と大きく異なる部分になります。


不変的な探求による論理は、とても正確でわかり易いものとして映ります。

日本語の感覚においては、そこまで割り切ってはできないものとなります。

学校教育もほとんどは欧米型言語の感覚による理論でできています。


見てきたように、両方の感覚がぶつかった時に受け入れるのは日本語の感覚の方であることがすんなりいくのは理解できるのではないでしょうか。

どちらが優れているのかという問題ではありません。

言語の感覚として持っているものの違いが明らかにあるということを理解しておけば十分だと思います。

何となく感じていた言語の違いによる不自然さや違和感がこれで説明できるかもしれませんね。



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