これは、表現するための言語と認知や思考するための言語が異なっていることから起きていると思われます。
基本的な言語としての母語の役割のほとんどは認知するためにあります。
生まれてから幼児期に習得する言語である母語は、認知することが大きな役割であり、その母語のまま表現されても、わかりにくいものがあります。
また、母語自体は主に母親から伝承された個人的な言語であるために、一般的な社会性のある言語とは異なっていることが多くあります。
さらに、母語は幼児期健忘によって一旦はリセットされていると思われますので、感覚として身についている言語感覚ということも言えます。
(参照:幼児期健忘について)
知的活動の第一歩は認知活動であり、そのために母語の果たす役割は大きなものがあります。
二番目の知的活動は思考活動であり、様々な知識が動員されることになります。
知識は共通性や社会性があって初めて知識としての役に立ちます。
知識のほとんどは、日本語の共通語としての役割を持った国語によってそのほとんどが習得されていきます。
国語は母語よりも社会性のある共通語的なものとなっており、社会生活を営んでいくための基本的なルールや基本的な論理を習得するためのツールとなります。
ここまでの段階でも、言語による表現は可能ですが、相手に理解してもらうための表現には程遠いものがあります。
相手に理解してもらうためには、知的活動の三番目の表現活動が出来なければなりません。
認知活動や思考活動は、個人で行う活動であるので、自分だけの言語であっても何も問題がありません。
しかし、表現活動の目的は、まずは相手に理解してもらう必要があるために、個人的な言語では誤解や理解不足を起こすことがよくあります。
表現活動のための言語は、相手の言語である必要があるのです。
完全に相手の言語を使って表現するはほとんどできないことですので、できるだけ相手の言語に近づける必要が出てきます。
社会生活が長くなってくると、国語以外にも専門用語や業界用語などの様々な言語が入ってきます。
場面によってはそれら生環境における言語である生活語を使わないと意味をなさないものもあります。
日常的に使っている言語ですので、使っている者にとっては母語・国語・生活語の区別はしていません。
よほど意識しないとその区別は分からないと思います。
本来ならば、表現するときに相手の言語にできるだけ近いものですべきところですが、自分の持っている言語でしてしまうことがほとんどになります。
そうなると、どうしても誤解や理解不足が解消できないことになってしまいます。
言語化することの難しはここにあります。
表現するときには、自分雄持っている言語ではいけないのです。
相手の持っている言語にできるだけ近ずけることが必要なのです。
同じ日本語ではないかと思っていても、一人ひとりが持っている日本語はすべて異なっているのです。
相手の持っている日本語が分からない場合は、できるだけ共通語としての国語で表現する必要があります。
音や文字は同じであっても、その意味するところが異なっていることが多いのが生活語です。
国語だけで生活が可能だった学生生活を離れてからの時間が長いほど、生活語による浸食が大きくなっていると思います。
相手の持っている言語を確認したり想像したりしながら表現しなければなりません。
言語化と簡単に言っても、簡単にできるものではないのですね。
日本語には、それを補うための婉曲的な表現や比喩表現が沢山ありますし、国語だけで表現できるものもたくさんあります。
うまく使いこなしていきたいですね。