ちょっとしたきっかけがあって、仲間と八丈島に行ってきました。
双子の火山を持つ全島の周回でも40km程度の島です。
島の人口は8000人を下回っていると思われます。
観光客の多い島ならば、都会からの客が多いために島独特の言語に触れる機会もそれほど多くはないと思われますが、八丈島においては20年来、来島者の減少が続いています。
映画のロケにも使われたことのある、一見派手な高級そうな大きなホテルが、10年以上前に閉鎖になったままであったりして、場所によってはバブルの崩壊を彷彿とさせるところもあります。
私たちが行った時は、恐らく一年中で一番厳しい時期ではなかったでしょうか。
まともに晴れが続くことがありません。
朝は一度も太陽が拝めませんでした。
移動の途中では、雨や雹にも見舞われました。
交通の便がよくなって海路でも空路でも行くことが可能ですが、来島者数のピーク時に比べるとその数は半分以下となっているようです。
東京から船で約11時間、飛行機で約1時間の距離は、決して遠く感じるものではありませんが、その割には運賃が割高に感じるところでもあります。
観光のライバルとしては沖縄やハワイなどが挙げられていますが、そんなに南に位置しているわけではありません。
緯度的には、四国の室戸岬や長崎県の佐世保市と同じ程度であり、気候的にもそれほど南国のイメージはありませんでした。
うたい文句も「常春の島」となっており、うっかりすると「常夏」と読み間違えてしまうところです。
シーズン外れの島は、思わぬものを見せてくれます。
南原千畳岩という溶岩が海に流れ込んでできた、切り立った海岸線があり、向かいには八丈小島が数キロの目の前にあります。
この季節の風は、一日中止むことがなく吹き付けており、海岸線ではそれこそ人が吹き飛ばされそうになるくらいです。
いくつかある漁港の防波堤も5m以上あるものが多くて、むしろ暴風堤となってるのではないかと思われます。
千畳岩の看板には、かつて島に流刑になった罪人の歌がありました。
こんな風景を毎日見ていたら、生についてまともに考えられなくなるのではないかと思ったほどでした。
雲が湧き、雨が降り、雹が降り、風が吹き、海が荒れる、こんな自然の中に居たらとにかく生きていくことが精一杯ではないでしょうか。
その自然に対処するために力を合わせる、そのために言葉が必要だったのでしょう。
迫りつつある危険を知らせるために、言葉が必要だったのでしょう。
改めて、日本語の感覚の根源にあるものを感じられたような気がしました。
理屈も何もなくなります。
生きるために自然にどう向かっていくのか、激しく変化する自然に対してどのように適応していくのか。
結果として、自然とどのように共生していくのか。
日本語の持っている根源的な感覚は、より厳しい自然環境の中でこそ確認できるものなのかもしれません。
その環境の中においては、余分な言葉を発している余裕もありません。
たまには、敢えて厳しいシーズンに出かけてみることは新しい発見が沢山あると思います。
飛行機に乗る前に、感覚を忘れないうちに記しておきたかったことです。