2014年12月8日月曜日

言語の2大役割

言語の役割について言及すると、それぞれの立場からさまざまな考え方があると思われます。

わかり易くを主眼に置いていますので、一般的に一番理解しやすいと思われる言語の役割を二つ挙げてみたいと思います。


一つは、情報伝達の手段としての言語になります。

コミュニケーションにための道具と言った方がわかり易いかもしれません。

実は、このコミュニケーションという言葉を的確に表すための表現が日本語ではなかなか難しいのです。

広義のコミュニケーションと言うと、非言語のコミュニケーションまでも含んでしまいますが、ここでは言語によるコミュニケーションを示しています。


言語を身につける目的の一つが、コミュニケーションのためにあることは異論のないところだと思います。

情報伝達のツールとしての言語と言うことになります。

同じ言語を母語として持っている者同士であれば、何の不自由もなくできるコミュニケーションが、持っている母語が異なったとたんにとても苦労をしたりできなくなったりしてしまいます。

国と言う存在はあっても、ネットの世界を中心として人の活動は国という範疇を越えて行われるようになってきています。

SNSにおいては、発信者が意識することなくとも、システムの中で勝手に翻訳が行なわれています。


相手の言語やその言語の持つニュアンスがわからないと、コミュニケーションは取りにくいものとなります。

母語以外の言葉を学ぶことは簡単ですが、その言葉によるニュアンスを理解することはとても難しいことです。

どこまで行っても異なる母語話者に対しては、推測して理解してもらうことが必要になります。


少なくとも相手の言語や言語感覚を理解しておかないと、こちらは母語で行う表現にも工夫を凝らさなければなりません。

世界の言語における共通語は、英語がその立場を確固たるものとしてきました。

世界に対して何かを発信したり、何かを受取ったりすることにおいて、英語に対する理解は必須のものとなってきています。

言語の一面としての、コミュニケーションのツールとしての英語は、これからも個人に対しても必要となってくるものであると思われます。


もう一つの言語の役割に、知的活動のための唯一の道具としてのものがあります。

狭義の知的活動は、思考活動と言い換えることもできるように、全く個人的な活動です。

共同での知的活動も存在しますが、それは個人の知的活動と、コミュニケーションが組み合わせで行なわれていると考えることができます。

知的活動と言語については、過去のブログでも詳しく述べてきていますので参考にしていただきたいと思います。
(参照:知的活動と言語について


私が考える知的活動は、三つの活動から成り立っています。

そのすべてが、個人的な活動です。

共同で行う場合や、アウトプットをして理解を求める場合に初めて対象者の言語を意識する必要があるだけです。

それでも実際の表現活動も、伝えたい対象者の言語を意識することはありますが、表現活動を行なうのはあくまでも個人としての知的活動となっています。

知的活動が個人的な活動である限り、他者の言語やニュアンスを意識する必要がありません。

知的活動においては、自分の持っている言語をどこまで使いこなせるかにかかっていると言っても過言ではないと思います。

つまりは、知的活動において必要な言語は母語だけであり、その意味では世界の共通語と言えども英語は必要ないのです。

自分の持っている母語で行なう知的活動が、一番効率がよく一番質が高いものができるからです。


バイリンガルであっても、二か国語を母語として持っている人は一人もいません。
(参照:バイリンガルの知能は低い?

母語があってこそ初めて、第二言語があるのです。

母語と第二言語の間の翻訳機能が高い人のことをバイリンガルと言っているのです。

バイリンガルであっても、母語に勝る知的活動のツールはないのです。

第二言語でいかに思考しても、絶対に母語で行われる思考にはかなわないのです。

感性は、母語の感覚で感じているものなのです。


バイリンガルは、単に第二言語についてその感覚の一部を母語によって理解しているにすぎません。

その理解をしている言語は、母語なのです。

第二言語を理解し使いこなして行くことができるのは、母語の能力に頼っていることなのです。


世界に対して発信をする必要があるときには、英語に対する理解が必要になります。

それは決して、英語で発信するということではありません。

言葉としての英語は、直接英語話者と会話をすること以外では覚える必要がありません。

言葉を覚えるよりも、英語の文化的背景や日本語との違いを理解することの方が大切になるのです。


母語で質の高い知的活動が行われたとしても、発信した内容にそのことが反映されていなければ何にもなりません。

知的活動の最終段階は表現活動です。

英語で表現する必要はありません。

母語が一番的確な表現ができることに決まっています、つまりは英語のニュアンスを理解したうえで日本語での表現を考える必要があるのです。

だから母語による知的活動になるのです。


英語を理解することも母語で行われていることです。

ここで行ないたい表現は、システムにおいて自動的に直訳的な英語の翻訳をされたとしても、言いたいことに対して英語の感覚をも考慮されている日本語による表現です。

日本語の方が英語よりもはるかに表現が豊かなのです。

日本語では、英語に翻訳されたときのニュアンスを考慮して表現することが十分に可能なのです。

英語では日本語のニュアンスを考慮した表現は不可能です。


英語話者や世界に対して理解を求める必要がないのであれば、そんな配慮は必要ありません。

母語としての日本語による表現を駆使して、日本語話者に対して感情に訴えることをしていけばいいのです。


コミュニケーションとしての言語においては、英語を学ぶことは必須になります。

しかし、英語話者や世界に対して本気で発信しなければいけない場面に出くわすことはどれだけあるでしょうか。

それよりも、日常生活の中で一番大切な知的活動のための言語としての母語を磨いた方が役にたつのではないでしょうか。

そこまで行かなくとも、英語の学び方を変える必要はないでしょうか。


日本語を母語として持つ者にとっては、どんなに学んだところで英語で知的活動や思考を行うことは出来ません。

簡単なことは出来るようになるかもしれませんが、その質においては母語である日本語による知的活動の比ではないのです。


英語によって開発された理論やツールが沢山あります。

その基本は英語を母語として、英語で知的活動を行なう人のためのものです。

説明言語である英語で考えられたものですから、直訳的に日本語になっていてもとても分かりやすいものとなっています。

しかし日本語による知的活動には合わないのです。


マネジメント、コーチング、その他の様々なメソッド的なものが取り上げられていますが、そのどれもが日本人に対して効果を上げていない理由がここにあります。

それらを日本語で理解して、日本語文化のなかで実際に運用したときにどうなるのか、判断の基準も類型化も全く違ってくることが沢山あるのです。

盲目的にそこに提示されたカテゴリーに分類することが違和感を生んでいくのです。

参考にすることは大切だと思いますし、彼らの言語の感覚や論理を知るにはもってこいの素材ですが、そのまま取り込んでも日本語話者に対しては効果がないことは明白なのです。

英語という言語と日本語という言語が、根本的に大きく異なっているからなのです。


言語は歴史文化のすべてがその背景になっているものです。

更には、日本語は彼らの言語よりもはるかに長い歴史を継承してきた言語であるために、日本人の感覚そのものとなっています。

第二言語は、コミュニケーションの為の道具ですが、母語はそれ以外に知的活動のための道具でもあるのです。


コミュニケーションのための言語としての英語は、これからもますます必要になってくるでしょう。

それ以上に、知的活動のための言語としての母語である日本語はさらに磨いていく必要があると思われます。

必須となる英語を理解するのも、母語である日本語だからです。

英語を理解することによって、日本語の特殊性や特徴を改めて理解することができると思います。

その違いが理解できることによって、さらに英語もより簡単に使えるようになってくるのです。


大きな大きな日本語は、学ぶための目的をはっきりとさせておかないと、どこまで行っても学びきれることはありません。

母語として日本語を持っている私たちでもそうです。


義務教育で身につけた日本語では新聞が理解できないのが現実となっています。

ましてや、外国語を母語として持つ人たちにとっては、余計に日本語を学ぶ目的を絞ってあげることが大切になります。

漠然と日本語を学びたいと思って取り掛かる人は、ほとんど使える日本語が身につかないことになります。

きちんとそのことを伝えてあげることも、母語として日本語を持っている私たちの務めかもしれないですね。



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