(参照:事実を表現すること)
その中では事実の表現の仕方として、精確(精密かつ正確)さが求められるとしてきました。
たった一つの事実も、見方によってはいろいろな表現ができます。
正確さの一つとして、物を限定するための品番や製造番号・シリアル番号などを例に挙げましたが、今回は一番よく利用する理論である三段論法を使って試してみたいと思います。
出来れば同じ言葉を使ってみたほうがわかりやすいと思いますので、次の二つの内容を比べてみてください。
1.「人間は必ず死ぬ。」、「私は人間である。」だから「私は必ず死ぬ。」
2.「人間は月に降りた。」、「私は人間である。」だから「私は月に降りた。」
両方とも、だから以降の結論に至る前の、二つの前提は事実であることが確認できます。
しかし、結論は1は誰もが納得し理解できることですが、2は完全な矛盾となっています。
どうしてこんなことが起こるのでしょうか?
1における二つの前提は、共に「共通認識領域」の事実として設定することが可能な内容です。
同じように見ると、2の二つの前提も事実として設定することが可能な内容となっています。
しかも論理的には全く同じ論理になっています。
二つの事実から導き出せる三段論法の結論が、一方は不変の事実を現わしており、一方は事実ではないことを導き出してしまっているのです。
実はこのようなことは、日常いたるところで起きており、見逃していることなのです。
かなり厳しい議論が行われている場や研究・実験の場においてもしばしば起きていることなのです。
1も2も前提となっている二つの内容は、事実であることは確認できますが、その二つの事実が同じ視点から表現されたものであるかどうかが問題なのです。
共に、結論のためのキーになっている言葉(文字)は「人間」です。
それぞれのところで使われてる、「人間」の使い方をよく見てください。
違っているのは、前提のうちの一つだけですね。
「人間は必ず死ぬ。」と「人間は月に降りた。」です。
これだけを取り上げたら、両方とも事実であるということができると思います。
ところが文字としては同じ「人間」ですが、それぞれの使われ方は精確さにおいて、大きな差があるのです。
表現の精確さにおいては決定的な差があるということができます。
「人間は必ず死ぬ。」は「(すべての)人間は(なにがあっても)必ず死ぬ。」という事実を表しています。
したがって、事実としてあらゆる状況において「人間=必ず死ぬ」がしっかりと成り立っているのです。
一方、「人間は月に降りた。」はどうでしょうか。
例えば「(宇宙飛行士アームストロングという)人間は月に降りた。」という事実は間違いなくあります。
宇宙飛行士アームストロングは人間ですので、確かに「人間は月に降りた。」は、それだけ見れば事実と言えます。
ただし、それはアームストロングという人間個人における事実であり、すべての人間に対してあてはまることではありません。
「人間=月に降りた」は確かに事実なのですが、それはほんの限られた条件に基づいてのものでしかないのです。
人間というカテゴリーに属するアームストロングが行なった事実であり、それによってすべての人間が行なったこととはならないのです。
これだけの大きな違いがあるのに、表現としては全くと言っていいほど同じものになってしまうのです。
例に挙げた前提としての事実よりも、カッコのついた内容の方が少しは精確さがありますが、導かれる結論や対比する事実によってはこれでも精度が足りない場合があります。
事実を正確に表現することにおいては、対比する事実によって求められる精度が変わってきます。
比較する事実の精度に合わせるかそれ以上の精密さをもって表現された事実しか、「共有認識領域」の事実として設定することができません。
精確な事実の表現を磨くことによって、精確さに欠ける事実の表現に対しての感受性を高めることができるのです。
事実を表現することの精確さに対する感覚は、感性ということもできると思います。
問題の定義や共有がうまくいかないときは、まずは共有すべき事実の表現の精確さを疑ってみることが早道です。
しっかりとした「共通認識領域」があってこそ、議論や交渉が協議の場として成立することになります。
どうしても対立の場になりやすい環境を、協議の場とするためには「共通認識領域」を精確な事実の表現で設定することから始まります。
意識してやってみませんか。
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