これには、大きく二つの要因が考えられると思います。
一つには、純粋にアウトプットのみを評価できる見方をしていないことが挙げられます。
もしかすると、対象とするアウトプットを評価する基準すら持っていないのかもしれませんし、持っていてもできないのかもしれません。
どうしても、対象とするアウトプットをした人を評価の対象としてしまうことが起きます。
そのことは、全く同じアウトプットに対しても、それをした人によって評価が違ってしまうことになります。
現実にはとてもよくあることです。
そのアウトプットをした人が、全人格的に人間としてどのような人であるかが評価の基準となってしまうことです。
社会的にどんな立場にある人なのか、対象とするアウトプットがなされる能力が感じられる人なのかで、評価が違ってしまうのです。
したがって”アウトプットの評価=人間としての評価”ならばまだいいのですが、アウトプットの評価ができずに全人格的な人間としての評価しか存在しない様なことになってしまいます。
結果としてアウトプットした内容よりも、持っているポテンシャルとしての能力の方が人として評価されるようなことが起ります。
もう一つは、アウトプットすること慣れていないために、インプットとしての知識の蓄積の方が評価されることが挙げられます。
何をやったのかではなく、どんなことができそうな能力を持っているかの方が重視されるのです。
いわゆる、試験というもののすべてがこれに該当します。
確かに試験の結果も一つのアウトプットということもできますが、それは能力の評価の場でありインプットして蓄積されたものの確認の場でしかありません。
私たちは、この種の試験に慣れすぎてきており、その結果を持って人としての評価をしてしまう傾向にあります。
これらが融合した中で、アウトプットと全人格的な人としてのあるべき姿を求めていくのが”道”と言われるものではないでしょうか。
どんなアウトプットであっても、そこに全人格的な人としてのあるべきものを追及していくものは、”〇〇道”と呼ばれるものになっているのではないでしょうか。
欧米の文化においては、アウトプットの比較によって順位をつけたり評価をしたりすることが頻繁に行われます。
そしてそこでは、全人格的な要素はほとんど加味されることなく、アウトプットに対してのルールさえ守られていれば、純粋にそのアウトプットに対しての評価が行なわれるのです。
その評価のための基準は、ある種明確に定められており、その評価はパフォーマンスに対してほぼ自動的に数値的に行われるようになっています。
そしてその評価は、アウトプットを行った個人の人格的な評価とは、全く切り離されて存在しています。
そのかわり、どんな者が行なったアウトプットであっても、純粋にアウトプットだけで評価できるようになっているのです。
誰がそのアウトプットをしたのかという記録は残ったとしても、その人に対する他の能力やインプットされている知識が対象となることはありません。
個人としての能力を評価し、その能力によるアウトプットを期待するという、日本人的な感覚にも、欧米のアウトプットを純粋に評価するという感覚がどんどん浸透してきています。
このことに慣れていない私たちは、やはり全人格的な人としての評価をしてしまうのです。
結果として、アウトプットを評価しているつもりでも、全人格的に人間を評価してしまうことになります。
これが、今度はアウトプットから人を評価してしまうことになってきてしまうのです。
日本型評価の良い点は、常に期待値があるということですが、欧米型の評価が浸透してきたことによって、誰かが下した一部のアウトプットの評価によって、その人の全人格的な評価をしてしまうことにつながっていきます。
期待されることによって、さらにその期待値を大きくしようとします。
そのために自己研鑽をして、資格を取ったりして能力があることを知らしめようとします。
評価は全人格的なものですので、あらゆる方面において能力を付けようとします。
これが”道を究める”ことにつながっていくのではないでしょうか。
アウトプットを純粋に評価することは、その評価基準を明確にすることによって、とてもわかり易いものとなります。
比較することも順位を付けることも簡単にできるでしょう。
日本における感覚は、競い合って順位をつけることよりも、技を磨き人格を形成していくことにあるように思われます。
”道”がつくものの中には、競技性のあるものもたくさんありますが、その中に段位が存在するものもたくさんあります。
競技の中においては、瞬間的な順位と段位が入れ違うこともたくさんあります。
アウトプットが技だとしたら、人としての形成は精神ということができると思います。
日本人は競技としての結果順位よりも、段位の方に敬意を払う傾向にあります。
アウトプットすることによって順位や評価を求めるのではなく、足りないものを知るという事があるように感じます。
技術的にどんなに優れたアウトプットをして評価を受けたとしても、求道者の方に共感を覚える感覚は日本人そのもののような気がします。
評価を得るためのアウトプットではなく、足りないものを知るためのアウトプットと考えたら、評価そのものの意味合いが変わってこないでしょうか。
もともと持っている感覚は、とてもわかり易いものではないでしょうか。
もっと日本語や日本人について知る必要がありそうですね。
それを持って、世界で活動するために。
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アウトプットすることによって順位や評価を求めるのではなく、足りないものを知るという事があるように感じます。
技術的にどんなに優れたアウトプットをして評価を受けたとしても、求道者の方に共感を覚える感覚は日本人そのもののような気がします。
評価を得るためのアウトプットではなく、足りないものを知るためのアウトプットと考えたら、評価そのものの意味合いが変わってこないでしょうか。
もともと持っている感覚は、とてもわかり易いものではないでしょうか。
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