2014年11月6日木曜日

意識しない言語・・・母語

読者数が増えてきて、そこそこ読まれていると思っても、ほとんど中身を見てもらえないのがブログであります。

また、思わぬところからのコメントや問い合わせをいただけるのもブログです。

想定した通りの対象者から、内容についてのコメントをいただいた時の喜びは格別なものがありますが、なかなかそうはいかないものです。


はっきりとした絞ったテーマについて書き続けることが一番大切だと思っています。

初めて読みに来た人にとっても、扱っているテーマがすぐにわかり、そこに役立つ情報があることが必要になります。

やがて、そのブログの更新のたびに読むことが当たり前となり、コメントのやり取りが始まり、顔を合わせて語れるようになることが理想ではないでしょうか。

その時にはブログはきっかけの一つであり、本人同士にとっては特に意識することもないものとなっているような気がします。


人の持っている三つの言語(母語、国語、生活語)のうちの母語についても同じようなことが言えると思います。

幼児期に半本能的に習得していく言語であり、そこにおける母親の影響は絶大なものがあります。

生きていくために必要な最低限のコミュニケーションの手段としての言語の段階です。

母親との間でのコミュニケーションのためには、どうしても必要なツールです。


結果としてそのほとんどの言語が、母親から伝承されるものとなります。

身体的発達を伴って活動範囲が広がっていくと、接触する人間が増えてきます。

それでも、やはり半本能的な活動として、母親以外から得た言語情報は母親との確認行為が行われた上で習得していることがわかっています。

保育園や幼稚園に行き始めると、園であったことをつたない言葉で、一生懸命に母親と共有しようとする活動が見られますね。

これもその確認活動の一つです。


母語の習得は、五歳を前にして終了すると言われていますが、この間に言語を習得してることを意識することはあるでしょうか。

育児書の内容や周りの子どもたちと比べて、言葉が遅いとかという現象でも感じなければ、子どもは勿論のこと母親や家族にとっても言語を習得していることを意識することはないと思われます。

しかも、この時に習得する言語である母語によって、生涯の知的活動の機能が決定していることなどとは誰が意識するでしょうか。

つまりは、意識しなくとも子どもも親も家族も半本能的に子どもの言語習得のための活動をしているのです。

しかも、子どもがもともと持っている機能によって、個人差はあるにしても、はっきりとした幼児期の言語教育の失敗という現象は見られないのです。
(参照:言語習得における母語の重要性

また反対に、どんなに意識して幼児期に教育をしたとしても、そのことによって自然にバランスのとれた言語習得に影響を及ぼすことこそあれ、良い影響を与えることがほとんどないこともわかってきました。

幼児期の英才教育が、バランスのとれた知的活動のための発達に悪い影響を与えることは、すでに万人の知るところとなっています。

いまだにはっきりとしたメカニズムが解明されていない幼児期健忘の現象にもよって、母語の習得についてはほとんどの場合は意識されることなく行われています。
(参照:母語と幼児期健忘幼児期健忘について

それでも、母語習得時の環境によってのちの言語感覚において与える影響が少しずつわかってきています。

その最たるものが、母語習得時における子供の周りの言語環境です。

人種の流動がかなり自由に行われている現在では、子どもの幼児期の環境は純粋な日本語環境の中でずっと過ごすことが難しくなって来ていることがあります。

国際結婚や海外での子育てなど、多言語との混ざり合った環境にある場合が出てきています。


母語の中心は、母親からの母親の持っている言語の伝承ではありますが、子どもの活動範囲が広がってくるとその範囲にある言語が影響を与えることは否定できません。

ましてや、子どもがコミュニケーションを取る相手が日本語話者ではない場合には、その言語が影響を与えることを十分に考慮しなければなりません。


母語は、複数の言語を区別しながら習得することは不可能です。

母語取得期には、子どもの置かれた環境にある言語をどんな言語であろうとも一つの言語として受け取ってしまいます。

特に気をつけなければならないことは、母親がバイリンガルである場合です。


母親自身は、二つの言語を使い分けすることができますが、受け取る子どもの方は両方の混ざったものを一つの言語として受け取ります。

母親にもバイリンガルとはいえ、母語があります。

子どもへの話しかけを母語に限定することが必要になるのです。


言語は音として現れる言葉だけではありません。

その言葉の使われる環境や感覚をも含んでいます。

人の言語感覚は母語によって形成されていますので、バイリンガルとはいえ言語感覚は母語の感覚しか持っていないのです。

日本語を母語として持っている人が、バイリンガルとして英語を使いこなしていても、日本語の言語感覚で英語を使っているにいすぎません。

英語の言語感覚で使う英語とは感覚が異なっているのです。


日本語は、世界の言語の中でもその特徴や言語感覚がきわめて特殊な言語です。

日本語を母語とする場合には特に、他の言語との接触に注意を払う必要があるのです。


日本語しか話せない母親であっても、持っている言語とその感覚は一人ひとり異なっています。

一人ひとり異なる日本語となっています。

その意味では、純粋な日本語というのは存在しないことになります。


子どもが母語として習得できる日本語は、母親の持っている日本語が限界です。

その母親の日本語自体が、多言語が混ざり合った日本語となっていますので、もはやかつての日本語を母語として持つことは不可能と言えます。

そこにさらに、英語が日常的に存在する様な環境で幼児期を過ごすと、さらに英語と日本語が混ざり合ったおかしな言語を母語として身につけてしまう可能性があるのです。

それは、日本語でも英語でもないこの世に存在しない言語感覚を持つことになってしまい、自分自身でその感覚と折り合いがつけられるようになる成人までは、とんでもない精神的な苦労をすることになるのです。


生まれてからの幼児期をシンガポールで過ごし、小学校の3年生に日本に戻り日本の小学校に転校した友人がいます。

彼の母語は英語です。

現地でも日本人街にはいなかったそうで、家庭での会話も英語だったそうです。

母親が日本人ですので若干日本語の感覚もありますが、母語としては明らかに英語です。

小学校3年生以降は日本の学校で過ごしてきていますので、日常語は日本語になっています。


母語として身についている英語の言語感覚と周りの人の日本語感覚の違いに随分と悩んだようです。

同じ日本語についての受け取る感覚が、教室のみんなと違うことに気がついたのが、小学校の高学年になってからだそうです。

言葉をその通りに受取ってはいけないことに悩み、会話ができなくなり精神科にも通ったそうです。

家庭で会話をしても、親もその感覚がわかりませんので、相談もできずに苦しんだそうです。


日本語の会話では理由のない違和感があるそうです。

質問をすると、何でそんなことを聞くのかという態度を取られれたそうで、ますます会話が遠のいたようです。

英語の会話でも、時々違和感が出るそうです。

よくあったのは、もっときちんと説明してくれという反応だったそうです。


母語の感覚としては、両方の感覚を持っていたのではないでしょうか。

しかも、それぞれが違和感として反対の感覚の時に発現してしまうのです。

日本語としても英語としても中途半端であり、自分は人と違うんだと感じてしまい、人と話をするのが怖かったそうです。


このままでは暗い例となってしまいますので、その後を付け加えておきましょう。

大学に行ってできた友人から、両方が理解できる感覚がうらやましいと言われたことがきっかけで、自分の感覚を友人と話せるようになったそうです。

そこから初めて、自分の感覚を楽しむことができるようになったそうです。


どこかの段階で誰かが彼の母語について気がついていれば、そんなに悩まなくともよかったかもしれません。

しかし、親でもこの感覚はわからないのです。

母語の選択と、母語習得の環境は本当に大切ですね。

子どもは勿論のこと、親も意識することなく進んでいってしまう母語の習得は、人の一生を決めてしまう言語であるだけに周りも気を配りたいところです。







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