(参照:日本語 vs 英語)
日本語話者においては、「対立」の関係にあること自体が安心できない不安定な感覚となります。
英語話者においては、「対立」の環境は当たり前に存在している状態であり、完全なる同意や同質の状態の方が不安定な感覚になります。
ひとたび「対立」の関係を意識してしまうと、日本語話者の場合は、何とかその関係を解消しようとします。
解消できない場合には、その関係そのものをなかったこととして回避しようとします。
それは、その人との「対立」の関係に対して不安定な感覚を感じてしまいますので、その人そのものを遠ざけようする行動に出ることになります。
「対立」の関係を維持したままの付き合い方を知らないからであり、その「対立」によってその人そのものを自分にとっての全面的な「対立者」として位置づけてしまうからです。
現実的に他の言語話者による侵略や地域的な分割のなかで同居をしたことのない日本語話者は、幾度かあった侵略の危機に対しても共同体としての同質の活動によってこれを排除してきました。
したがって、共同体の中での同質性を保っていることに安心感を感じるようになっており、その中で異質を主張したり感じさせることは、共同体からの隔離を意味することになるのです。
いわゆる、村八分という状態となってしまい、生きていくことが難しくなってしまうのです。
「対立」の関係を解消するためには、「対立」の関係にある現象よりも、自分にとってはもっと価値のある現象において、同意や同質の関係を築く努力がなされます。
現実には「対立」の関係があるにもかかわらず、何らかの協力を必要とする場合には、他の要素での同意や同質の関係性を見つけることが行なわれます。
「対立」の関係を維持したままで、その人との付き合いをしていくことは感覚としてとても難しいこととなっています。
日本語話者にとって、「対立」の解消のための最終手段はその人との接触の回避である絶交と言うことになってしまいます。
対して、英語話者にとっては「対立」の関係は意識せずとも日常的に存在しているものです。
むしろ同じであることの方が落ち着かない状態であると言えます。
そのために「対立」に対する対処の仕方に慣れています。
「対立」の状態を当たり前のものとして、その中で生きていくことに対して日本語話者ほど不安を感じていないのです。
したがって、「対立」の極地である戦いに対しても、日本語話者ほどの抵抗感がありません。
そのために人としての個の存在に対して尊重すべき教育が徹底されており、個に対する意識が植え付けられてきていると思われます。
何かの問題に対してのアプローチにも差が現れます。
日本語話者は、同質性を前提としたアプローチによって、現状を起点とした提案の積み重ねによるアプローチよって解決を図ろうとします。
そのために、現状の「対立」を問題とした場合には、最初からその構図を受け入れるのが難しくなっているために、なかなかうまく進みません。
それを解消するためには、より大きな概念やより価値があると思われることにおける同意や同質性の確認が必要となってくるのです。
ひとたび、この関係が出来上がると、日本語話者は無類の力を発揮します。
世界最強の言語を駆使して知的活動を行ないますので、同質性の上に立った問題解決においては圧倒的なパフォーマンスを実現します。
様々な分野より様々な提案がなされていき、それに触発されてさらに磨き上げられた問題解決策が練りあげられていきます。
英語話者を代表とする他の言語話者においては、「対立」の構図は当たり前のものとして存在していますので、その対立だけを取り上げて現実的に妥協点を見つけていくことができます。
「対立」そのものに対しての条件提示と妥協点の探り合いで、問題解決をしていくことが可能となっているのです。
中国との外交交渉において、その典型を見ることができるのではないでしょうか。
アメリカも日本も、中国とは大きな「対立」の関係にあります。
日本と中国は、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の対立関係にあり、交渉の場面そのものがなかなか作れない状況にあります。
アメリカは表面上は大きな「対立」を抱えながらも、現実的な場面での「対立」においては、数多くの交渉の場を官民ともに維持しており、実際の活動においては相互依存の関係分野を着実に増やしながら、両国の国益に結び付いています。
世界との交渉に慣れている民間企業の方が、中国との交渉の場面が多くなっている日本ですが、肝心なことは国が決めてる中国においては、実際の場面における「対立」がさらに両者の距離を開かせている結果となっています。
同じ漢字を使っている国ではありますが、中国の「対立」における感覚はアメリカの感覚により近いものとなっています。
私たちが、嫌いな国として挙げると、北朝鮮とともに常に上位に入ってくる中国は、彼らから見ると日本の交渉に対するスタンスがわからないのです。
国レベルの交渉において何をしたいのかがわからないのです。
私たち日本語話者の感覚として、「対立」とうまく付き合う必要性は急務となっています。
そのためには、日本語話者として持っている感覚を少し騙す必要があるようです。
「対立」を解決すべき問題として、相手と共有してしまうことが一番わかり易いことではないでしょうか。
個別の条件交渉は、共通の問題解決に対しての提案であると位置づけたらどうでしょうか。
まずは、「対立」という言葉を使わなくすることだと思います。
彼らは、「対立」を見つけたところからが交渉の始まりなのです。
「対立」が見つかると、それを回避しようとすることからは正反対なのです。
ひとたび共通の解決すべきテーマを持った時の日本語話者のパワーは圧倒的です。
いかに「対立」のなかで相手のことを理解したうえで、共通のテーマにできるかが問われていると思います。
どこまで行っても平行線である交渉は、さらなる関係悪化を招きます。
もともと主張することが苦手な日本語話者が、自己の欲しいものだけを主張してもうまくいくわけはありません。
「対立」をうまく生かして、共通テーマを見つけていきたいですね。
「対立」のない環境は、現状打破ができないことになってしまいます。
上手くいっても現状維持となってしまいます。
「対立」をうまく生かして、変化していきたいものですね。
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