2014年11月18日火曜日

国語の先生は多言語を学べ

学校教育の中でも、義務教育の低学年においては国語教育が中心になります。

考えれみれば当たり前のことで、すべての教科書が国語で書かれており、すべての授業が国語でなされていくわけですから、国語がわからないと授業にならないからです。

特に低学年のうちは、教科としてのいくつかの授業がありますが、そのすべてが国語の習得のためにあると言ってもいいくらいです。

そのためにも、一人の先生ができるだけ多くの教科を担当して、日常的に子どもたちの様子を把握できるようにしているのです。


教師は、一般的な社会生活を経験することなく、学生からそのまま教師への道を歩くことがほとんどです。

先輩たちもみんなが同じように、一般的な社会経験を経ずに教職の世界に入っています。

教わる方と教える方の差こそありますが、学校教育と言う環境においてはずっと同じ世界で生きていくことになります。

更には、一般的な社会とは一種隔離された聖職的な意識もあるため、とても排他的な環境となっている独特の世界でもあります。

教育行政そのものも、ほとんど一般の社会とは切り離された特別の世界として存在していると言えるでしょう。


教頭、校長、教育行政官などは地元の名士として扱われ、呼び方としては医者や議員と同じ先生です。

職業と言う位置付けとしても、一般的な職業と比べると特殊なものと言わざるを得ません。

多少の疑問を持ったとしても、教育界として作り上げられてきた世界は保守的であり排他的なものとならざるを得ません。

改革するための知恵は内部からしか出てきません、一般社会からの知恵の導入は高等教育以降で試験的に取り組まれている程度ではないでしょうか。


そんな中で国語教育のための教育を受けてきた学生が、ある瞬間から国語を教える先生になってしまうのです。

国語の大切さは、共通語としての存在にあります。

全ての人が同じ理解をし、同じ理解のもとに使える言語を身につけるものです。

国語習得の以前に子どもたちが持っている言語は、母語であり母親を中心に伝承されたきわめて個人的な言語です。

同じ日本語であったとしても、一人ひとり違う言語となっています。


人として生きていくために必要な、基本的な知識やルールを身につけるのが義務教育です。

そのためには、誰が聞いても使っても同じ理解ができる共通言語が必要です。

それが国語です。

学習言語と言われたり第一言語と言われたりすることがあります。


全ての知識やルールが国語によって伝えられ、国語によって理解されていくのです。

そのための国語の基本的な習得期間が小学校の低学年です。

発達過程における個人差の大きな時期でもあります。

習得状況も個人によって大きく異なる時期でもあります。


国語を日本語の標準語として教え込むことは、とても難しいことです。

個人の持っている母語と異なることが出てきます。

場合によっては国語が正しい日本語として、持っている母語を否定することも起きてきます。

更には、標準言語として国語の習得度合いを成績として評価してしまいます。


評価は客観的なものとして扱われてしまい、評価がよくないとあらゆる方から責められるもとになります。

攻められる方は面白くありません。

特に国語の習得においては、小学校の低学年の生徒は自分ではどうしていいのかわかりません。


低学年を担当する国語の先生は、子どもたちの興味を引きながら押し付けにならない形で、共通語を自然に使っていけるようにすることが求められているのです。

とんでもない能力が必要になっているのです。

国語の先生ほど、他の言語についての特徴や言語教育について学んでいる必要があるのではないでしょうか。


6歳の年齢における一年近い生まれつきの差は、相当大きな個人差となって存在しています。

しかも習得度合いは更なる個人差を持っていることになります。

個に対する配慮と個としての力を発揮させることにおいては、海外の国語教育には学ぶところがたくさんあります。


海外の言語の特徴を学ぶことによって、さらに日本語としての特徴が明確になるのではないでしょうか。

義務教育の早い段階から英語を学習することだけが、国際化への対応ではないはずです。

ましてや、これから生きていくための知恵とルールを身につけていかなければいけない時期ですから、そのための学習言語としての国語はしっかりと身につけなければなりません。

国際化への対応も、学習言語による国語によって初めて身につけることが可能となります。


国語を習得しながらも、自然と外国語との違いを感じることができることこそ、日本語のアイデンティティをより鮮明にするのではないでしょうか。

国際化とは世界に迎合することではありません、世界に対して日本としてのアイデンティティを持って接することです。

そのために、何よりも日本であることが大前提になります。

その特徴は言語において現れているものです。


国際化の時代を迎合して生きていくことは簡単です。

自国の象徴である母語の代わりに外国語を身につければいいだけです。

そうではない国際化を選択するのであれば、何よりも日本であることが大切になります。

日本の特徴を自分たちが理解して発信する必要があります。

それを行うのは言語である日本語です。


母語は、一人ひとり感覚の微妙に異なる言語です。

日本人としての共通のアイデンティティは、国語によってもたらされています。

世界の中を日本を意識せざるを得ない時代環境となっています。

世界を知り、その上で日本の特徴を確認しながら国語と言う共通日本語を身につけていくことは出来ないでしょうか。


身につけるだけでも他の言語に比べ多くに時間を必要とする言語である日本語習得には、それだけの期間もあるのではないでしょうか。

直接子どもたちに国語を教える環境にある先生ほど、他の言語のついての学びが必要だと思われます。

そのためのサポートは、社会のあらゆる場面から可能ではないでしょうか。


先生の意識は一番大切ですが、子どもたちを社会全体がサポートしている環境こそ、世代を超えた共通語としての国語が実際に生きる場ではないでしょうか。

母語で身につけたそれぞれの日本語感覚によって、共通語としての国語を身につけていきます。

共通語の国語によって、環境言語の生活語を身につけながら社会生活をしていきます。


共通理解やルールのための言語は、生きていくための基礎言語としての母語の上に立つ、社会生活を営むための共通語です。

問題が起きた時に戻るべきところは共通語である国語があるのです。

もっと、大切に扱ってもいいのかもしれませんね。




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