2014年11月16日日曜日

言語で違うゴールとプロセスの意識

言語の違いは、それを使う人の知的活動における特性として現れてきます。

人の知的活動は言語によって行われていますので、その人の持っている知的活動のための言語である母語によって得意なパターンが決まってくることになります。

何度か見てきたように、日本語は世界の他の言語と比べて際立って特徴の多い言語となっています。
(参照:気づかなかった日本語の特徴

そのために、知的活動の中でも特に思考するための得意パターンが、他の言語の思考パターンと異なっていることがわかります。


特にゴール設定と、そこに至るプロセスを考えた時に、言語による特徴をよりはっきりと見ることができるようです。

英語を代表とする欧米のアルファベット系の言語や中国語などでは、ゴール設定を中心とした思考になります。

コールを決めたうえで、プロセスを積み上げて組み立てていきます。

目標を決めたうえで、達成方法を考えることになります。

その結果として、ゴールに至る最短のプロセスが設定されていき、そのための障害も明確にされていくことになります。

あらかじめ想定される障害については、その回避方法も想定しておくことが行なわれます。


ゴールを達成することの方が意識されていることが強いために、時としては無謀なプロセスや強引なショートカット的なことが行なわれることもあります。

目標に固執するあまり、達成する方法については手段を選ばないということも起りがちになります。

意識の中では、ゴール>プロセスとなっていますのでよりゴールに早くたどれるプロセスが見つけられれば、その変更は比較的スムースに行われます。

目的であるゴールがあってこその思考パターンになりますので、あるゴールを達成してしまったあとで次のゴールが見つけられないと、思考活動そのものに停滞が起こることがあります。


対人環境においては、先に結論を提示して、あとからその理由を述べていくので、客観的でわかり易い内容となります。

聞き手の方は、常に疑問を持ちながら話を聞くことができるので、問題点や自分の意見と異なる点などを把握しやすいですし、指摘しやすいことになります。


日本語の場合は、プロセス>ゴールとなっていることが多くなります。

もちろんゴールもプロセスも設定をされてるのですが、プロセスの方から思考されることが得意となっています。

それは現在行われているプロセスの改善や達成に対する意識の方が、ゴールに対する意識よりも強いことになります。


日本の場合は、明確なゴールがなくとも日々の業務の改善を黙々と行いながら、新たなゴールを設定していくことが可能となっています。

他の言語での活動の様に、明確なゴールがなくとも目の前にあるプロセスに取り込むことによって、直接的にはゴールに結びつかないようなことまで、労をいとわず対応することができます。

改善のための試行錯誤を繰り返して、目標に到達する感覚となります。

達成までのスピードは決して早くはありませんが、多くの経験によって成長することができるものとなっています。


目標が曖昧であったりすると、達成までのかかる時間や達成したかどうかがわからなくなるために自信を失っていくことが多くなります。

そのために、「どうせ無理だからやらない。」という意識が生まれることが多くなります。


対人環境においては、結論が最後の来るために、聞き手の方ではずっと説明だけを聞いていくことになり疑問を持つ間がありません。

最後の結論の時には、前に聞いた内容をほとんど覚えていないことが起きやすくなります。

そのために、結論を受け入れやすいという特徴が出ることになります。

日本語での得意パターンにはまると、大きな目標を掲げて議論を始めても、できない理由を見つけて現状維持に戻ってくることが多くなります。

これは日本語で知的活動を行なっている限り、その特性として備わっているものです。

日本語で行っている限り、よほど意識して切り替えないと、知らないうちにそのようになっていくことになるのです。


論理としては、欧米型の方が理解しやすいものですから、良く取り上げられますが、行動のもととなる知的活動が日本語でなされている限り、理屈通りにならないのが現実となっています。

どちらも共にゴールとプロセスの設定をするわけですが、どちらにより意識が置かれているかと言うことです。

知的活動には人の評価も含みますから、使用している言語で人に対しての評価も異なってくることになります。

明確な目標設定と達成の実績が欧米の言語での評価であり、目標への到達の可能性を持った日々の成長や能力アップが日本語での評価となるのです。


どちらがいいとか悪いとかではありません。

言語によって得意なパターンができてしまうのです。

そのことをわかって、陥りやすい環境に対して、違った刺激を与えることが可能になるのです。


日本語だけを使い、日本語だけの環境の中にいたのでは、永久に気がつくことがないと思われますし、その必要もないでしょう。

しかし、自分の意思に反して嫌でも世界と触れることが起きています。

彼我の違いを理解しておくことは、よりよく自分たちを知ることになり、そのことによって世界に対しての個性を打ち出すことができるのではないでしょうか。

間違った誤解を、知らない間にもたれることがないようにしたいものです。

言語として持っている、得意なパターンは、意識をしないと陥りやすいパターンのことでもあります。


特に自分一人で行っているときの知的活動においては、集中しているあまりにこの様なパターンについて見直す余裕がないものです。

人が陥っているときには気がつくのですが、自分では知らないうちにはまっていることがよくあります。

客観的に見る時間も必要ですし、誰かとの共同作業も有効だと思います。

思考的に苦手なことは、行動的にも苦手なことです。

気持ちよくアウトプットまで持っていける方法を、自分なりに持っておきたいですね。





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