2014年10月6日月曜日

日本語 vs 英語(2)・・・論理性

今回の内容は、勝ち負けにはそぐわない内容です。

文化的な面も大きく影響していることだと思われます。


日本語の特徴は、文字や文章になっていないことを読み取ることが求められることにあります。

いわゆる、「行間を読む」と言われるような、直接文字や文章で表現されていること以外のことを理解しなければならないことです。

それにもいくつかのパターンがあります。


そのうちの一つに、和歌でよく見かけることができる掛詞(かけことば)があります。

これは、ひとつの言葉に複数の意味を持たせたもので、元になる言葉が直接表現されているだけに、まだ分かりやすい方だと言えます。


使用目的や必要な機能を表現せずに、具体的なものだけを表現することでもあります。

その場や前提条件をよく把握しておかないと、困るようなことになります。

「コップを人数分買ってきてくれ。」と言われて、ガラスのコップを買ってきたら、打ち上げで使う紙コップのことだった場合のようなものです。

打ち上げの予定すら聞いていない場合もあるのではないでしょうか、それでもガラスのコップを買ってきたら怒られますね。

すかさず、「紙コップ、10個くらいでいいですね。」と切り返せることが、「行間を読む」ことになるのでしょう。


英語の場合は全く異なります。

ガラスのコップを買ってきたとしても、非難されるのは買ってくることを頼んだ方なのです。

非難されるのは、表現の悪さや説明の不足が非難されるのです。


相手の理解に頼ることが許されないのです。

文字として書かれていること、言葉として表現されたことがすべてであり、以下も以上もないのです。

理解させることの責任は、説明する側にあるのです。


本当にあった話かどうかは知りませんが、英語の性格を表すのにこんな話がありました。

濡れた猫を乾かすのに、電子レンジに入れたら、死んでしまったという事故で、猫の飼い主が裁判所に訴えを起こしました。

電子レンジの説明書に猫を入れてはいけないと書いていないというのです。

日本では訴えることすらあり得ないことだと思いますが・・・


結果は、電子レンジのメーカーが説明書不備ということで裁判に負けて、賠償したということです。

それでなくともやたらと長い取扱説明書を、まともに呼んでいる人はいないと思いますが、何か起きた時にそのための免責事項が記載されていないと、とても不利な立場になるのが英語社会だそうです。


したがって、たとえ共有している環境や前提条件があったとしても、その条件を表現しておかないといけないのが英語です。

書かれていることがすべてですので、複数の受け取り方が可能な表現は徹底的に排除されます。

好意的な受け取り方をしてくれません、むしろ批判的な受け取り方をするのが当たり前になっていますので、どうしても説明が長くなってしまいます。

話し言葉の場合には、相手の理解を確認しながら、必要なことはすべて伝えきらなければいけないのです。


日本語で抽象的な指示言葉や指示代名詞が多くみられるのは、共通した感覚や理解については表現しなくてもわかるという無意識の習慣があるからです。

「例のヤツな。」「そこは、あれで行こう。」「そっちはどうだい。」こんなものを英語に直訳したら、誰もわかる訳がないのです。


英語で表現された内容は、日本語に比べると、ずっと丁寧で論理もわかりやすいものとなっています。

英語で表現されたものをすべて日本語に翻訳すると、くどすぎて嫌になるくらいです。

理解させることを表現の目的としていますので、論理もわかりやすくなっています。


ですから、アメリカで開発されたマネジメントやコーチングなどのメソッドが紹介されて、わかりやすいと受け入れられていますが、わかりやすいだけです。

実際の運用においては、日本人はその通りになりませんので、理論理屈はわかりやすくとも、日本人はその理論通りにはならないことがいたるところで起きるのです。


彼らは、論理の重要性と言語による理解を最優先します。

そのことが正しければ、どんなに仲のいい人間であっても批判します。

それが親兄弟や尊敬していた人であっても批判の対象とします。

裁判における証拠と論理が正しければ、親が有罪となっても親を批判の対象とします。

感情と論理の正しさを区別しています。


彼らにとっては、好き嫌いや愛憎の感情と言語による正悪の判断は全く別のものなのです。

そして、感情よりも言語による判断の方が優先されるのです。

言語によって正しいと判断される行動は、感情とは別にきちんと行動されなければいけないのです。

それが当たり前の行動なのです。

それが社会のルールなのです。

ですから、彼らは感情が論理に勝った行動を極端に嫌うのです。

彼らの行動基準は、言語による正しさなのです。


日本の場合は、行動において感情の方がずっと勝っています。

日本語で表現されている内容自体が、英語での表現よりもずっと正確さに欠けていますので、受け取る人によってかなりの理解の違いが生じています。

極めて近い生活環境や仕事環境にいる人同士でないと、行間を読んでも同じ理解ができるとは限らないのです。v


日本人の場合は、論理的にどんなに有効で正しい内容であったとしても、それだけでその行動に出ることはありません。

それよりも、信頼している人からの情報であれば、論理や正確性に関係なく行動に移すことの方がはるかに多いです。

論理と理解によって行動するのが英語だとすると、感情と好みによって行動するのが日本語だと言えるのではないでしょうか。

極論になりますが、行動のための意思決定が、英語の場合は論理によってなされており、日本語の場合は感情によってなされているとも言えるようです。


日本人が思ってる以上に、彼らにとっての表現された言語は、話し言葉にしても文章にしてもとても重要なものなのです。

とくに、文字や文章にされたものはサインが入るのが一般的であり、話した内容よりもはるかに重要な意味を持つものとなります。

ひとたび文章化されたものはかなりの拘束性を持つものと言えるでしょう。


当事者がサインをした契約書は、彼らにとっては絶対的なものですが、日本人にとってはその内容すら変更できるものとして考えられています。

とくに日本人同士であれば、調整によって契約書の内容を簡単に変えることがあります。

判断基準が、彼らが表現された言語に基づく事を基本としているのに対して、日本では一般的な共通認識に基づくことを基本としていると思われます。


多民族国家であり、広大な国土の中ではどんな人がいるのかもわからないアメリカにおいては、言語を基準としなければ他に基準とする事ができないのだと思います。

それに対して日本においては、狭い国土の中に、彼らから見たらほとんど金太郎飴のような同じ生活環境で生きている人間ばかりです。

一般的な共通認識も、アメリカ人に比べたらはるかに狭い範囲に限られています。

したがって、言語情報に含まれてる以外の情報交換が可能となっているのではないでしょうか。


そして相手を感情で動かすための言葉の表現の豊富さが、歴史を通じて積み重ねられてきているのでしょう。

日本語の表現は、相手の感情を動かすのに適したものであり、英語の表現は、相手の理解をより正確にするために適したものとなっているのではないでしょうか。


その日本語が、欧米の先進文化に触れて追いつこうとしたのが明治維新です。

その時に新しい言葉を生み出しながら、彼らの正確さの表現と論理を取り込んでいったのです。

そこから生まれた新しい漢字たちは、新しい物を表す言葉や新しい概念を表す言葉と一緒に、論理性や正確性を表すための言葉も含んでいたのです。


それでも、言語がもともと持っている性格は変わりません。

日本語は、基本として持っている性格が相手の感情に訴えるのに適していることを理解していると、表現の仕方も変わってくるのではないでしょうか。





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