2014年10月7日火曜日

日本語 vs 英語(3)・・・表現の豊かさ

言語による表現の豊かさは、理解することのむずかしさにもつながるものです。

それでもその言語を使いこなしている人(母語としてその言語を使っている人)にとっては、身についる感覚で無意識のうちに使いこなしているものです。

そのこと自体が、他の言語話者から見ると凄いことをやっていると映ります。


日本語は、他の言語に比べると圧倒的に表現が豊かな言語となっています。

一般的に使用されている文字だけでも、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベット、と4種類もあり、同じ言葉であっても何種類もの表現方法があります。


英語のネイティブ同士の会話の約90%を理解しようとするには、3,000語の英単語知っていれば可能だと言われています。

対して、日本語のネイティブ同士の会話を同様に理解しようとすると、10,000語の日本語を知っていないとできないと言われています。

英語を母語に持つ人にとっては、日本語は朝鮮語と並んで、もっとも身につけるのが難しい言語の一つとなっています。


それでも、日本語の昔ながらの言葉(やまとことば)は、外国に人にとっても美しい言葉として受け入れられています。

それは単なる表現の豊かさからくるものではなく、和歌によって磨かれてきた現実の風景と心象の融合された表現にあると思われます。

地名や人名などの固有名詞を除くと、そのほとんどがひらがな言葉で表現された和歌は、やまとことばとその表現技術を磨き上げてきた表現芸術と言えます。


五、七、五、七、七、の三十一文字のなかで、様々な音を表現するためには、言葉によって聞き手の想像力を掻き立てる必要があります。

そのためには、一つの言葉に複数の意味を込めたり、複雑な思いを単純な言葉で例えてみたり、文字の並びの中に別の言葉を隠してみたりの技法が発達しました。

そして、それを理解するためのには、読み手の方にもそれを読み取れるだけの技量が求められるのです。


あまりにも技巧にこだわりすぎた和歌などは、それだけでは理解できないものもたくさんあります。

同じときに詠まれたものと比べたり、詠まれたときの環境を把握しないと理解できないものなども数多くあります。

学校教育で和歌を取り上げることは、日本語の表現技術を学ぶためにはとても良い方法ですが、詠まれたときの環境の説明もなく、和歌だけで理解させようとしても難しいしいものがあることをわかっておく必要があります。

詠まれた時代背景とともに、詠み人のその時の置かれた環境を知ることによって初めて歌の思いが理解できるのではないでしょうか。

子どもたちが和歌に興味を持てない理由は、こんなところにもあると思われます。


イギリスでは、伝統文化として演劇や詩がしっかりと根付いていますので、英語においてもアメリカに比べるとより豊かな表現を持っています。

アメリカ英語は二百数十年前にイギリスから独立以来、極めて現実的な自然科学分野と工業技術分野での発展に特化してきました。

その分、イギリス英語に比べると情緒性に欠ける替わりに正確さや論理性を磨いてきたということができると思います。


日本語は、一つの言語のなかでその経験をしてきました。

開国による明治維新によって、文明開化、富国強兵を急がなければならなくなりました。

遅れれば、西洋列強による植民地となってしまう危機的状況です。


アメリカに遅れること約100年、産業革命を経験したヨーロッパ文明を一気に取り込んだのです。

このときに大活躍したのが漢字による造語です。

漢字の持つ具体性と汎用性が大いに生かされて、近代文明の正確性と論理性を新しい言葉を作りながら取り込んでいったのです。


もともと歴史的に持っていたやまとことばをひらがなで継承しながら、新しい漢字をどんどん増やして一般化していったのです。

漢字かな混淆文が一般化してくるのが鎌倉時代の後期だと言われていますが、それは文学上の話であって、一般人には文字を読めない人が多くいました。

明治より導入された教育制度によって、新しい多くの漢字とともに一般的な識字率が大きく跳ね上がっていったのです。


日本語は、文字のない時代よりの言葉をひらがな言葉として継承しながら、漢字という造語力に優れた文字をフル活用して情緒性と同時に正確性をも手に入れることができたのです。

日本語を曖昧な言語だという人がいます。

ノーベル文学賞の授賞式でまで、そんなこと言った者までいます。

一面しか見えていない悲しさだと思います。


世界に現存する文字を持った言語のなかで、日本語が一番表現力が豊かな言語ではないでしょうか。

ただし、本当にその豊かさを感じ取れるのは、母語として日本語を持った人だけに限られてしまいます。

それも、他の言語の感覚がわからないと気がつかないことです。

その母語として日本語を持った者が、自分の言語に対して曖昧だなどと言っているようでは困ったものです。


英語を母語として持つ者が日本語を見る時には、彼らにとってわかりやすいを日本語を見ます。

当然、ひらがなが多いわかりやすいものを見ることになります。

曖昧さがたくさんあるに決まっています。

特に文学作品は、その曖昧さが読み手の想像力を掻き立てるのです。


正確さや論理性が必要なモノは、それほど一般的にはお目にかかりませんが、そのことを目的に書かれたものの正確さは英語のそれを上回るものもたくさんあります。

日本語に翻訳された自分の研究論文を理解できた学者は、その正確な表現に驚いたということもあるようです。

翻訳者の力量に負うところが大きいわけですが、日本語の表現の豊かさの一例ではないでしょうか。


日々日本語だけにしか触れていないと、その特徴には気づきません。

特徴とは、何かの比較対象があって初めて存在するものです。

世界ではコミュニケーションの道具として使い物にならない日本語ですが、世界の言語から見た際立った特徴は、その言語を母語として持つ人の特徴そのものです。

世界が注目する日本人の特徴は、言語における日本語の特徴と重なっているのです。

国際人たるためには、よりはっきりとした日本人であることです。

そのためにも、この素晴らしい豊かな表現力を持った日本語を使いこなすことが一番の近道だと思います。


現代日本で一番日本らしいものは日本語ではないでしょうか。

言語は日々変化していきます。

その変化も豊かな表現の一つです。

もっと日本語で表現してみませんか。






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