2014年10月2日木曜日

徳川家と吉良家(2)

家康は天下を取った後は、徹底的に徳川世襲の権力基盤を築くことに尽力します。

その一つに朝廷対策があります。

天皇家との姻戚関係を築くことにあらゆる手段を使います。

その時に朝廷との交渉・調停役となったのが吉良家です。

吉良家がなければ、徳川家は常に朝廷に対して最大限の警戒を払わざるを得なかったと思われます。

それだけに特殊な立場にいる吉良家に対する目の光らせ方も尋常ではなかったと思われます。


1605年に家康は、吉良庄を流れ吉良家に富を運んでいた源泉である矢作川の水路変えて、海に流れる場所を変えてしまいます。

それは、まさしく矢作川を吉良庄を迂回するルートに変えてしまう、大土木事業です。

これによって、以降吉良庄では干拓がほとんど進まないことになります。



1605年は、二代将軍の秀忠が征夷大将軍の任命を受けた年です。

征夷大将軍の世襲が、現実として決定した年と言っていいと思います。

家康にとって、一つの朝廷対策が実を結んだ年と言ってもいいでしょう。

4月の秀忠の征夷大将軍任命を待って、矢作川の流れを変える工事を開始したのです。

新しい河口は、吉良家の富の拡大を抑止し、徳川家に新たな富をもたらすこととなったのです。


江戸幕府の開府当初は、手を結べば徳川に対抗することできる外様大名が沢山おり、彼らをまとめ得る脅威は権威としての唯一朝廷にしかありませんでした。

家康は息子の秀忠の7番目の子どもである、五女の和子(家康の内孫)を後水尾天皇の女御として入内させることを計画します。

徳川の子孫が天皇となることを画策したのです。


和子は、「かずこ」という名でしたが、入内に際し濁音を忌み嫌う宮中の慣習にしたがい、「まさこ」に呼び方を改めたと言われています。

和子の入内は家康の死(1616年)の後の、1620年に実現することとなります。

1615年には禁中並公家諸法度を制定し、大御所徳川家康、二代将軍徳川秀忠、前関白二条昭実の3名の連署をもって公布されました。

これによって天皇の行動をも制限することとなりました。

また、これによって公家世界の秩序を回復し、安定させた効果もあると言われていますが、実際は荒廃していた公家の実態に対して、今までの権益を保証した内容に過ぎないと思われます。


これらの朝廷との調整役を担っていたのが吉良家です。

高家という称号は家康の死後に定められたと思われ、高家の筆頭としての吉良家は、朝廷との行事関係や武家社会での行事礼儀作法を司る、武家社会としては特殊な役職を得ました。

吉良家は外様大名の米沢藩の上杉家や薩摩藩の島津家などと姻戚関係を結び、幕府から見ればますます危険な存在となっていきました。

家康から秀忠・家光に引き継がれた朝廷対策は、幕府を嫌った後水尾天皇の活動などもあってなかなかスムースには進みませんでした。

その分、幕府の思惑とは反対に吉良家の力がますます大きくなっていったと思われます。

危険分子でありながら、その役割が必要なために、また朝廷のバックがあるという独特の立ち位置に対して、幕府としても扱いに困る存在であったと思われます。

簡単に排除してしまっては、朝廷側の心象を悪くし朝廷対策がさらに難航することが明らかだったからです。


家康が描いた究極の朝廷対策は、天皇家と将軍家の一体化です。

将軍家の娘が天皇家に嫁ぎ、皇子を生んでその子が皇位に座れば、以降の天皇はよほどのことがない限りはすべてその子孫ということになります。

徳川家より嫁いだ和子が皇子を生み、皇位につくことを家康は夢見ていましたが、和子の入内前に息を引き取ることになりました。


二代将軍秀忠、三代将軍家光までは家康の描いた道を歩んでいましたが、和子が生んだ後水尾天皇の二人の皇子は夭逝してしまいます。

1630年には和子の生んだ女一宮が後水尾天皇の後継として即位し、明正天皇となります。

女帝では血統がつながりません。


即位のときには、和子の兄にあたる家光が上洛し、姪にあたる明正天皇に拝謁し東福門院(和子)の御所も訪れています。

徳川家の朝廷を統制し天皇との一体化を図ろうという試みは、様々な要因があって失敗に終わります。

四代将軍の家綱以降では、むしろ朝廷との協調路線がとられていきます。


天皇と将軍の謁見以降は、様々な階層で幕府と朝廷の交流があったことがうかがえます。

高家としての役割も分散されてきており、五代将軍綱吉のころにおいては、ほとんど儀礼的なものに限定されていたのではないかと思われます。

そんな時に起きたのが、浅野内匠頭と吉良上野介の事件だったのです。


関ヶ原から100年を経過し、戦を経験したことのある武士はほとんどいなくなります。

平和ボケした武士たちは、刀こそ差してはいますが幕府の政治に携わることが最大の目標となっていきました。

武家としての規律や主君に対する忠誠心が緩んでいたころということができます。


行事や礼儀作法を指導する立場にある高家は、それなりの力を持った立場であったろうと思われます。

朝幕関係も安定を見せており、家康のころに比べると朝廷との接点はいろいろな階層・場面であったと思われます。

それでも、大名や旗本にとっては朝廷接遇の儀式や作法はほとんどわからず、高家に頼るところ大であったと思われます。


実は、いろいろな説がありますが、史実的には浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけることになった動機がよくわかっていないのです。

捉えられた浅野内匠頭は外部との接触を一切許されずに、家族や藩の人間に合うこともなく切腹を命じられ、お家取り潰しとなっています。

対して上野介は、高家職を自ら辞することをしているだけです。


これは、幕府にとっては千載一遇のチャンスとなったのです。

それでも、高家職を辞めさせるための工作ぐらいはあったのではないかと思われます。


桜散る春に命を散らす浅野内匠頭の切腹シーンから始まり、雪降る本所吉良邸の討ち入りでクライマックスを迎える忠臣蔵は、命を懸けた忠義として日本人のこころに響く最上級の物語です。

その裏にある、江戸幕府の本当の狙いを見つけていきたいと思います。

話しは、まだ続いてしまいますね。





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