2014年10月3日金曜日

徳川家と吉良家(3)

元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)いよいよ、江戸城本丸松の廊下での事件が起こってしまいます。

浅野内匠頭長矩(ながのり)が吉良上野介義央(よしひさ)に対して刃傷沙汰を起こしていまいます。

この時の幕府の処理の素早さと完全な情報管制によって、その動機については諸説ありますがすべて推測の域を出ていません。


この時の将軍綱吉の判断が異様な速さです。

浅野長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決したのです。

これ以前にも多くの刃傷事件が発生していますが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてであるとされています。


一方、吉良義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出し役を辞しています。

8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを命ぜられ、受領は9月3日であったとされています。


また、赤穂藩においては3月19にに知らせを受けた大石内蔵助良雄(よしたか)らを中心として、浅野長矩の弟浅野長広(大学)を擁立しての御家再興を目指し各方面への働きかけを決します。

しかし、元禄15年7月(1702年7月ごろ)、浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、赤穂浅野家再興は絶望的となります。

そして、7月28日に京都丸山会議が開かれ、仇討が決議されることになります。

奇しくもこの日は、浅野長広(大学)が広島に出発する日と重なりました。


当時の江戸市中は密偵であふれており、幕府はほとんどの武家の動きを把握することができたと言われています。

徳川家は、この機会を逃すことなく吉良家をつぶすためにあらゆる工作をした可能性が非常に高いと言われています。

その具体的な内容をいくつか挙げてみようと思います。

  1. 吉良家の本所への移転の命令(8月13日)が、赤穂浪士の仇討の可能性を確認して行われたと思われること。
  2. 元の吉良邸は江戸城郭内の北町奉行所の近くにあり、討ち入りなど絶対に不可能であったこと。
  3. 移転先である本所回向院の隣は、大きな倉庫街地区であり、人通りも少なく討ち入りにもってこいの地域であること。
  4. 江戸に潜入した浪士たちの潜伏先(ほとんどすべてがわかっています)のほとんどが、幕府の最重要警備地域(麹町、番町エリアなど)であり、幕府は彼らの動きをつかんでいたとしか考えられないこと。(参照:江戸城の門の名前
  5. 浅野内匠頭以下すべての赤穂浪士が、家康が建て家光が再建した徳川家の寺である泉岳寺に葬られたこと。(参照:仮名手本忠臣蔵からの妄想
  6. 討ち入り後の泉岳寺への移動は、東海道の高輪の関所ともいえる大木戸を通っているが、番所からも何も咎められていないこと。

どう考えても、江戸幕府はこの討ち入りに対して目をつぶったという以上の、積極的な関与・援助があったのではないかと思われます。

血に染まった集団が大木戸を通っていくのに、声もかけない門番などいるわけがありません。

明らかに幕府よりの指示が徹底されていたとしか思えません。


徳川家としては、役目が少なくなった割には朝廷という切り札を持つ吉良家は一日も早く葬りたい存在となっていたと思われます。

しかし、その立場と朝廷への説明を考えると生半可な理由では取り潰すわけにはいきません。


江戸城本丸松の廊下における刃傷事件は、徳川家にとっては浅野が悪かろうと吉良が悪かろうとどうでもよかったのです。

この事件をきっかけに、白昼堂々と吉良家をつぶす口実を手に入れることができればそれでよかったのです。

そう解釈すれば、あまりにも早い事後処理と情報管制の理由がはっきりしてくるのです。


しかも、平和ボケをし始めた武士や世間に対して、命を懸けた忠義を植え付ける最高の物語を見せることができるのです。

さすがに、即日切腹となった浅野長矩の刃傷沙汰までが計画されたものとは思えませんが、この一事が世の中には最高の忠義の物語と見せながら、実際は吉良家の抹殺計画であったことは、その後の対応によく現れているのではないでしょうか。


幕府の定めに逆らって仇討をおこなった赤穂浪士は、罪人であるにもかかわらず、命を懸けた忠義のヒーローとして大々的に売りに出されます。

泉岳寺はさながら、忠臣蔵・赤穂浪士のテーマパークの様相となります。

高輪の大木戸は、泉岳寺の総門のすぐそばに移動され、当時の日本で一番多い人通りが泉岳寺を意識せざるを得ないようになります。

赤穂浪士を扱った土産は、東海道と品川発の船に乗って全国に広がっていきました。


即日切腹の浅野内匠頭長矩の死で幕を開けた物語は、吉良上野介義央の死でクライマックスを迎え、四十七士の死によってその物語を閉じていく忠義の最高峰として後世に伝えられていくことになります。

赤穂浪士の18人の息子たちは、一度は罪を受けますが、すぐにその罪を解かれて父親以上の禄で諸藩に迎えられていくことになります。

やがて、赤穂藩は復興されることとなります。


対して、吉良家の方は、上野介の実子で上杉家を継いだ綱憲は、父を救えなかったことを悔やみ一年後に悶死します。

上野介夫人の富子は、息子の死後二か月後に後を追うように病死します。

実孫で吉良家の嫡男であった吉良佐兵衛は、討ち入りの時には深手を負いながらも気絶するまで赤穂浪士と戦いました。

しかし、その佐兵衛に対して徳川幕府は、父を守らなかったとしてお家を断絶し領地を没収とします。

佐兵衛は信州に流罪となり、厳しい環境の中で三年後には息を引き取ります。

これで吉良家の血筋は途絶えることとなります。


最後の吉良家に対する幕府の扱いは、一言で言えば難癖ではないでしょうか。

そこまでしても、徳川幕府としては吉良家を潰したかったということになるのではないのでしょうか。

赤穂の四十七士の江戸のおける動向や討ち入りに際しての計画などについては、かなり詳しい情報が残っています。

当然、幕府としても彼らの動向については把握していたと解釈した方が自然ではないでしょうか。


大名の参勤交代においては、彼らに大金を使わせることによって、力を弱めようとする狙いが大きかったと言われています。

戦のない時代は情報収集力がすべてを左右します。

江戸という都市は、幕府の情報網が張り巡らされた街です。

藩同士の接触を禁じたなかで、江戸においては藩士同士が情報交換をすることができるのです。

そのすべての情報が幕府によって収集されていたとしてもおかしくない密偵網が布かれていました。

敢えて自由に情報交換ができる場を設けて、そこで情報収集を徹底するという組織が出来上がっていたのです。

そのために参勤交代があったのではないでしょうか。


赤穂開城以降の浪士の動きは、完全に幕府に掌握されていたと思って間違いはないでしょう。

幕府としては、自ら定めた法に触れることに直接手を貸すわけにはいきません。

しかし、彼らの役に立つことを別の名目で行うことはいくらでもできるのです。

幕府開府以来、内に抱えた最大の敵を葬るために利用された、命を懸けた忠義物語。

それが忠臣蔵だったのではないでしょうか。




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