2014年10月1日水曜日

徳川家と吉良家(1)

以前のブログで忠臣蔵に触れた時に、徳川はどうしても吉良を滅ぼしたかったとしか考えられないと書きました。
(参照:仮名手本忠臣蔵からの妄想

詳細については、参照のブログを読んでいただきたいと思いますが、徳川家と吉良家の100年以上にわたる暗闘についてはあまり触れていませんでした。

歴史が好きな方がたくさんいらっしゃるようで、コメントもいただいていますので、先回と同様に史実とは異なるかもしれない妄想に近いものですが見てみたいと思います。


吉良家は、源氏の流れをくむ武家の名門中の名門です。

話しは鎌倉時代にさかのぼります。

1221年の承久の乱の後、源氏の名門であった足利義氏が三河の守護職となり吉良庄の地頭職を兼務します。

それ以降、鎌倉時代から室町時代を通じて吉良姓を名乗ります。


この吉良庄は東海地方にあり、今の愛知県にある矢作川が昔の流れである矢作古川の下流域で駿河湾にそそぐ一帯の地域です。

後の徳川家の発生である松平家の岡崎とは矢作川の上流下流として、接している地域になります。

吉良庄は、矢作川が運んでくる大量の土砂によって、その河口部は大きな干潟を形成していました。


その干潟を塩田として利用していきました。

次に、その塩田を干拓して農地として開拓し、その先の前浜をさらに塩田として利用していきました。

この繰り返しによって矢作川の河口は沖へ沖へと干拓されていったのです。


1441年に、将軍の足利義教が暗殺されると、吉良庄の吉良義尚が足利将軍の代理を務めたほどのスーパー名門だったのです。

しかし、戦国時代になると下剋上の世に突入していきます。

吉良家から分家した今川家が、三河地方に武力によって勢力を広げていきました。

そして、この地方は今川家と織田家の争いの最前線となっていったのです。


この両雄の間で幼少期を翻弄されたのが、三河地方の小さな領主であった松平家の竹千代(家康)です。

1542年に岡崎で生まれた家康は、ある時は織田の人質となり、ある時は今川の人質となり戦国の波の中を漂っていました。

1560年に、歴史をひっくり返す下剋上が行なわれます。

桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を破ってしまったのです。


今川陣営だった家康は、今川義元の戦死後に念願の岡崎城に入場して、織田家との同盟関係を結びます。

その後は、織田家と一体となり各地を転戦する戦国大名となって、次第に勢力を拡大していくことになります。


天下取りを狙う家康は、当然のごとく隣国である吉良家も狙いました。

吉良領に攻め入った家康は、いったんは吉良家を倒しますが、吉良義定とその子である義弥(よしみつ)を部下として従わせました。

その後、吉良義定は関ヶ原の戦いで大いに奮戦活躍して、旗本として取り立てられて名門の吉良家が復興し存続することとなりました。


この吉良家が、関ヶ原の戦い後に大変重要な役割を担うことになります。

1600年の関ヶ原の戦いから1603年までの3年間は、家康の活動がほとんど見えない時期です。

この間、家康は関西にあって、じっと待っていたのです。

それは、家康にとってはただ待つことしかできない、朝廷からの「征夷大将軍」の任命だったのです。


そもそもは蝦夷征伐のための官位だった征夷大将軍の名称は、鎌倉以降は武家の棟梁として朝廷から認められた宣言となっていたのです。

この時の「征夷大将軍」の任命を受けるため朝廷工作をしていたのが、源氏の流れをくむスーパー名門の武家である吉良家だったのです。

吉良家は、朝廷に100年も仕え足利家と同様の地位を得ていました。

足利幕府が滅んだ後は、吉良家が唯一絶対の武家と朝廷の調整役だったのです。

その吉良家を、家康は直参の旗本として従わせていました。

吉良家が、朝廷と徳川家の仲介役として、家康の望みを実現していくことになるのです。


源氏の流れでないことによって、征夷大将軍になれなかった秀吉は関白という実権のない官位を授かることで武家の頭領たろうとしていました。

家康も源氏の流れではないのですが、そこはタヌキおやじです。

家系図をごまかしてでも、征夷大将軍の任命を得ようとしていました。

それは、朝廷から見ても武家の頭領として認めたことになるからです。


三年間という期間を使いながらも、吉良家の工作によって1603年に家康は征夷大将軍の任命を受けることに成功します。

朝廷から、正式に幕府を開設する権利を付与されたことになります。

征夷大将軍の任命を受けるや否や家康は、江戸に移動してすぐに隠居してしまうのです。

そして、征夷大将軍を息子の秀忠にするように朝廷に対して働きかけるのです。


この工作を一手に行っていたのが吉良家です。

秀忠を征夷大将軍に任命することこそ、家康が狙っていたことだったのです。

征夷大将軍を、徳川家による世襲にするための最初の関門だったのです。

家康の狙いは、自分が征夷大将軍になることは勿論のこと、自分が生きているうちに将軍の意志で隠居することによって、征夷大将軍の位を世襲させる道を作ってしまうことだったのです。

家康の征夷大将軍の任命のみならず、秀忠への世襲のためには吉良家の朝廷における力がどうしても必要だったのです。


吉良義定は、家康の強引な狙いを実現するために、朝廷との調整役を担っていたのでした。

他の大名にとっては、吉良家は単なる名門であり、敬意を払っていればいいだけの存在でしたが、徳川家にとってはそれだけでは済まない存在となってしまいました。

徳川家存続のためには、吉良家を必要としてしまったのです。

1605年に秀忠が征夷大将軍の任命を受けます。

世襲の道を拓いたと言っても、その後の征夷大将軍の任命のためには朝廷の意を得るために吉良家の仲介と調停に頼らなければならなかったのです。

豊かな塩田と農地を持ち、朝廷における武家の代表の地位を持っている吉良家が、おとなしく徳川家の指示だけに従っていることは可能でしょうか。

朝廷における武家の代表ということは、武家における朝廷の権威そのものでもあるわけです。

徳川家にとっては切れ味鋭い、両刃の剣でもあったのです。




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