これもどうやら、話し言葉と文字になった言葉では少し違うようです。
話し言葉では、「じぇじぇじぇ」のように意味がない(意味の分からない)単音がいくつか並んでいても、使う場面によっては効果があります。
反対に、文字で「じぇじぇじぇ」と書いても、見慣れない文字ですので読むことと字体に難しさがありますし、文字情報だけからは何の事だか伝わらない可能性があります。
特に新しい言葉は、その成り立ちにおいて二種類の方法があると思われます。
一つは動作を伴って、使用する環境も一緒に表現の要素となっている、話し言葉としての新しい言葉です。
テレビという視覚情報が主体のメディアから登場する流行語については、ほとんどがこの手の言葉と言えるでしょう。
もう一つは、文字としての意味によって作られた造語的なものです。
漢字の組み合わせや当て字などで作られるものです。
また、一般的にはなじみのない分野の専門用語を持ち出してきて、一般的な解釈を与える場合もあります。
明治維新の時に盛んに行われた、外国の言葉に対して仏教用語から言葉を充てたもの、「演説」や「談話」などが当てはまります。
新しい言葉は、目新しさとしての感覚はありますが、心を動かすものとまでは言い難いところがあります。
心を動かす言葉は、聞き馴染んだ言葉や使い慣れた言葉で、日常ではあまり意識をすることもなく使用している言葉によって表現されたものが多いようです。
改めてその言葉の持つ意味の深さを感じることができたり、その言葉の持っている新しい感覚に気づかされたりしたときに大きく心が動かされるのではないでしょうか。
したがって、受け手側の要素が多いために、その言葉を使用する側が意図して心を動かそうとして使った言葉であっても、その通りにはならないことが多くなります。
下手なコピーライティングは、作者側の独りよがりの言葉が多くて、なんとなく意図がわかったとしても心が動くには至らないものが多くなっています。
また、そこに明確な意図が見える場合が多く、かえって反発を誘うものとなっていることもよくあることです。
言葉自体がそれだけで心を動かすことはないと思われます。
言葉自体は、無味無臭で何の色もついていないものではないでしょうか。
伝達のための記号の一つであり、ツールです。
言葉が意味を持つのは、そのその言葉によって物や行為や有様が結び付いているからです。
その言葉に何度も触れながら、使われてる環境によってその言葉が示す内容を感じ取っていくこともあります。
または、言葉をいくつか持ち始めると、持っている言葉によってその言葉の示す内容を説明できるようにもなってきます。
国語はまさしく言葉を理解するための言葉です。
なるべく同じ理解ができるように、一つの言葉に対してできるだけ限定的な内容を示すものを使おうとします。
初めに物の呼び方としての言葉を覚えるのはそのためです。
そこに存在する実物に対して、それを呼び示す言葉から覚えていきます。
指し示す対象物が目の前にある訳ですから、万人が同じ理解をすることができます。
やがて、状態や有様を示す言葉を覚え理解できるようになり、さらには行為を示す言葉を理解できるようになります。
それらの言葉を使って抽象的なことや関係性、因果性などを理解し説明できるようになっていきます。
心動かす言葉は、使い慣れた日々親しんでいる言葉が、ある象徴的な環境において使われたときに、まさしくその言葉が本来持っている感覚とぴったりと合致したと感じられた時に発現するものではないでしょうか。
どれだけ鮮明に、その言葉の使用場面が描けるかが大きな要素になると思われます。
そして、その場面で心動かされた人たちが、他の似たような場面でもその言葉を使い始めることによって、言葉としての独り歩きが始まるのではないでしょうか。
流行語に、「いつやるか、今でしょ。」があります。
予備校の講師が、受講生に対して今現在ががんばりどきなのだと伝えたくて言い始めた言葉です。
これによって心を動かされた人たちが、いろいろな場面でも使い始めたのです。
感動することだけが心を動かすことではありません。
「なるほど」や「本当かよ」も心を動かされていることになります。
言葉が一人歩きを始めると、慣用句的な使われ方をされるようになります。
そのうち辞書にでも掲載されるようになってくると、その語源までが紹介され使われた環境がより知れ渡っていくことになります。
心を動かす言葉は、知らないうちに使っていることもありますが、これを意図して使いこなせるようになると大変な効果があります。
上手なコピーライティングは、決して奇をてらった様な言葉は使われていません。
日常使われている当たり前の言葉によって、心を動かされる工夫がされています。
それは、場面を鮮明に思い描くことができることです。
そして、そこに使われている当たり前の言葉が、その言葉でしか示すことができないようなものとして描かれていることです。
私の大好きなコピーに、「そうだ、京都、行こう。」があります。
言葉だけで、京の紅葉が頭の中に広がってしまって、この季節になるとだんだん気になってしまいます。
このコピーの心臓部は、「そうだ」です。
普段何気なく使っている言葉です。
しかもその意味や示す内容などほとんど考えたことがありません。
初めて雑誌でこのコピーを見た時には、大きな紅葉の写真が載っていました。
しかし、京都のイメージは紅葉だけではありません。
人によっては祇園祭や清水寺であったりします。
「そうだ、京都、行こう。」の京都は人によって、勝手にざまな京都が描けるのです。
JR西日本の宣伝に使われたこのコピーは、あらゆる人の京都に触れたのです。
話し言葉にしても、文字にしても誰に対してもそれぞれの心に触れる言葉となったのではないでしょうか。
話し言葉の使用場面は、動画を除けば相手がそこにいる場合がほとんどです。
そこには描かなくとも環境があります。
その場や話題に応じた言葉のなかで、「なるほど」「これだ」というものが見つけやすい環境になります。
しかし、瞬間に流れてしまうことに対する対応力が問われることになります。
文字表現では、読む人見る人の環境が定められない場面が多くなります。
したがって、文字や文章で環境を表現する力が必要になります。
ここを疎かにするとせっかくの言葉が生きてきません。
それぞれに必要な力は異なりますが、言葉が生きるも死ぬも環境とどれだけマッチしてるかどうかに変わりはありません。
心を動かす言葉は、それだけでその場を想像することができます。
そんな言葉を使っていきたいですね。
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