(参照:日本語の向こうにあるモノ)
これは言語の成り立ちを考えた時に、どのように考えるかによって大きく変わってくることだと思われます。
言語を人間と言う同種の生き物における、仲間同士の合図であると考えると、その種の中だけで理解できるものと限定されてしまいます。
言語を、神とコミュニケーションしたり、祈りをしたりするための祝詞として考えると、自分たちとの間での合図と考えるよりも広く理解されるものとなります。
言語を持ち始めたころの人間は、自然の中で生きていくうえで、自分たちでコントロールできることがあまりにも少なかったと思われます。
そもそも、自然の中で日々生き残っていくことが精いっぱいであり、そのためには食物にしても生活環境にしても自然の偶然に頼らざるを得なかったのではないでしょうか。
自然に祈りをささげ、少しでも自分たちに都合の良い偶然が起こるように願ったのではないでしょうか。
このころの言語は、そのほとんどが「ことだま」となって自然を司っていると感じていた神への祝詞となっていたのではないでしょうか。
やがて人は、知恵を身につけ知識を持って、自然をコントロールすることを始めるようになります。
そして、人が生きていくことにとって都合のいいように自然をいじり始め、自分たちだけが生きる時間を延ばすことによって、自然の生きる時間を削るようになりました。
のぼせ上がった人間は、やがて自然は自分たちでコントロールしきれるものだと過信して、自然の偶然に頼ることをしなくなり、神との本来の会話を忘れるようになります。
自分たちに都合の良いことのみを起こしてくれるものを神として偶像化してしまうようになります。
言語は、自分たちだけの仲間同士の合図でありコミュニケーションの道具となり、神との会話や祝詞としての機能をどんどん失っていくことになります。
自分たちのことだけを声高に語り主張し、相手をひれ伏すための言語が、人が生きるためだけの技術を生み出し世界を席巻していきます。
自然と語り、自然の神と語る言語を持っていた者たちは、次々と人のためだけの言語を持ち技術を磨いていった者たちに侵略をされていきます。
やがては、侵略は言語にまでおよび、神と語り自然と語る祝詞としての言語がどんどん消えていくことになります。
古代の言語は、日本語に限らずおそらくすべての言語が、神と語るための「ことだま」とつながっていたと思われます。
「ことだま」を人間同士の合図としても使えるようになるために、言語が生まれたのではないでしょうか。
多くの言語が、より人だけに都合の良い技術を生み出していくことによって、「ことだま」の部分を失っていきました。
人だけに都合の良い、便利な技術の世話になるためには、その言語を使わなければならないからです。
やがて、ほとんどの言語は、自ら「ことだま」の部分を失っていったか、「ことだま」の部分を失った言語によって侵略されていくことになります。
そんな中で、あらゆる文化や言語の侵略において、特定の言語での対応でこれらをこなして、自然との対話・神との対話をしてきた言語をほぼそのままの形で残してきた言語が日本語です。
生まれたころの言葉の音を継承し、その音の表記のための文字を「ひらがな」として発明しました。
しかもこの言葉は、生まれたころの形をほぼそのまま現代に継承してきています。
「ことだま」の部分をなくした文化や言語への対応は、漢字やアルファベットやカタカナなどを駆使して対応してきました。
音としてのひらがなを利用することはあっても、古代から伝承してきている言語に影響を与えることはほとんどありませんでした。
継承されていく過程で、消えていく言葉が出てくるのは仕方のないことですが、言語そのものを失うことはありませんでした。
これが現代日本語の最大の特徴ではないでしょうか。
言語の特徴は、それを使う人に現れるものです。
「ことだま」を失った言語の人たちから見たら、日本語話者は不思議な存在です。
世界有数の文化国家でありながら、人(自己)中心の技術や便利さについての発展に疑問を感じるようなことをする、訳のわからない存在なのです。
その感覚は、歴史的に彼らの侵略があまり及ばなかった地域である未開地の言語に近いものと映ります。
それにもかかわらず、ノーベル賞の受賞者数を初めとする日本人の優秀さに、その根拠を見つけることができない彼らは、一種の怖さを伴った不思議さとして映っているのです。
日本人は彼らの感覚がわかるのです。
なぜなら、現代日本語の感覚の一部には彼らの言語感覚も大きく影響しているからです。
それによって、築くことができた知識や技術もあることをわかっているのです。
しかし、それだけでないことも意識できなくとも何となく違和感として感じているのです。
「ことだま」領域の存在は意識できるものではないと思われます。
現実には言語(言葉)としてしか現れませんから、使っている本人ですら意識することはないと思われます。
しかし、日本人同士の会話における、理由のない同一感や、自然に中における細やかな音との一体感は感じることができるはずです。
日本語は、先進文明の言語としては、「ことだま」をかなりの領域で持った数少ない言語ではないでしょうか。
もしかしたら、「ことだま」を持った唯一の言語かもしれません。
仲間は、先進文明よりも未開に近い、より自然の中で生活している言語のところにあるように思います。
「ことだま」は「言霊」であると同時に「事霊」です。
先回のブログで述べたように、同じ万葉集のなかで、山上憶良と柿本人麻呂がそれぞれこの言葉を使っています。
(参照:日本語の向こうにあるモノ(3))
文字のなかった時代に「ことだま」という響きがあったことを現わしています。
しかも、それが文字で表せるようになると「言霊」とも「事霊」とも書き表すことができるものとなっていたと思えます。
まさしく、森羅万象自然の中に存在する神としか言いようがないと思われます。
同じ日本人で日本語を話す者であっても、その日本語に対する感覚は一人ひとり異なっています。
そのほとんどは、母親や家族から継承された言語感覚を基礎としているからです。
一人ひとりが持っている「ことだま」の領域も異なっているのだと思います。
それでも、同じ日本語としての言語を使っている限り、共通している部分もたくさんあるはずです。
きっかけは、ひらがな言葉です。
できるだけひらがな言葉を使うことによって、少しでもこの感覚に気付くことができるようになるといいですね。
意識してできることでもないと思いますし、無意識のなかで感じていることですので、「感覚」という言葉でしか表現できないことがとてももどかしいです。
人(自己)中心の知恵や技術が、人が存在できるための自然環境そのものを破壊していることに気づきはじめた人たちがいます。
行動が始まっていますね。
人中心の理屈で考えるとおかしなことでも、自然の中で生かされていることから考えると妥当なことがたくさん出てきています。
自然に生かされている者のみが、生きることを許されているのでしょうか。
健康的な長寿者の人口が多い国が何かの方向性を示しているのかもしれませんね。
ますます、日本語にのめりこんでいきそうですね。
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