(参照:「ことだま」と「ことあげ」)
その中で、「ことだま」については万葉集のなかで柿本人麻呂と山上憶良で二通りの表記があることを指摘してきました。
確かに、そのことに間違いはないのですが、人麻呂においては「事霊」もあれば「言霊」も使われており、どうやら使い分けがなされているようです。
他の資料でも調べてみたら、「ことだま」との対比で登場させた「ことあげ」にも以下の二通りの表記がなされていることがわかりました。
ここでも、人麻呂においては両方の使い方を見ることができます。
やはり、何らかの意図を持った使い分けがなされていることを感じざるを得ません。
「ことあげ」については、古事記においてもそれに関連した記述があり、明らかに漢語が導入される前から存在していた言葉のようです。
「ことだま」だけを見ていたのではよくわからなかったのですが、古事記においてよく眺めてみるとこんなことが言えるようです。
人が声を出して会話をする行動において使われている言葉は、「曰(いわ)く」「白(もう)す」「云(い)う」「謂(い)う」であり、「言う」がないのです。
「言」が使われている場面をよく見ていくと、神との直接的な会話における約束事や重大な決定ごとに限られているようなのです。
「ことあげ」を見てきたときも、自分の意志や主張を表明することであり、あまりやってはいけないこととして取り上げられていることです。
しかし、これは「言挙」として、神に意志や重大な決定ごとを表明するときに使われていることであり、普通の人の場合には使用されていない言葉です。
つまり、やたらと自分の意思を表明すること自体を戒めた言葉ではなく、神に対することを示した言葉であり普通に人がやるべきことではないという解釈の方がよさそうです。
「言霊」や「言挙」は神との交渉における神聖な行為であるため、たやすく行なったり人同士で行うことを戒めたものとなっているのではないでしょうか。
つまり「言」は神に対してのみ行なうことができる行為ということになります。
それでは「事霊」や「事挙」はどうなるのでしょうか。
どうやら、一般から見たら神同士ともいえる、天井の神と現人神である天皇との間において、神が天皇に対して行っている行為が「事」だと思える場面があります。
神に対して行うことが「言」であり、神が行なうことが「事」と解釈できそうです。
人が神に対して行うことが、祝詞としての「言」となるとわかりやすいのではないでしょうか。
そうなると、現在私たちが誰に対しても使っている「言う」という言葉は、同じ音であっても「云う」と書くべきなのかもしれません。
実は、現在でも「言挙」は極めて一般的に行われていますね。
そうです、神社への初詣は典型ですね。
人に聞かせることなく、神に対して自分の意志や願いを伝える行為ですね。
神に対して、祝詞としてささげた「言の端」(ことのは)は、神の意志としての「事の端」(ことのは)としてもたらされると考えられていたのでしょうか。
このころの精神文化は間違いなく現在の私たちにも伝わっています。
「言」と「事」が動作としては同じようなことを現わしていたであろうことは、「こと」という同じ読みからも容易に想像できることです。
主体を考えたことによって違う表記になったことは十分に考えられることです。
しかし、これが柿本人麻呂だけによってなされていることは、さらに彼の存在をクローズアップすることになるのではないでしょうか。
「言」と「事」の使い分けは人麻呂によってのみ行われていることとしか見ることができません。
結論の出ない内容だとは思います。
しかし、古代史ロマンを言語から見ることができることはとても楽しいことです。
古事記や万葉集については成立年代も定かではなく、内容の解釈についてもさまざまな説があります。
いろいろな解釈ができていいのではないでしょうか。
いずれにしても確かめようはないのですから、様々な想像の翼を広げて古代へ飛んで行ってみたいものですね。
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