2014年8月28日木曜日

日本語の「間」

日本語以外の言語を使う人達は、話しの「間」についてどんな意識を持っているのだろうか。

そもそも、「間」という感覚があるのだろうか。

どうやら、話しの「間」というものは日本語の独特の感覚のようです。


平べったい抑揚の少ない日本語に、アクセントやリズムをつけるための一つの方法であることは間違いないようですが、それだけではないようです。

ベテランの役者さんの舞台でのセリフの「間」は、日によって異なっているそうです。

それは、役者さんが意識してやっていることではないそうです。


新人の役者さんなどは、自分のセリフを覚えて言うことが精いっぱいで、「間」を考えたり使ったりすることができません。

少し舞台慣れしてきたころでも、他の役者さんのセリフに合わせることが精いっぱいで、なかなか自分で「間」を作ることができないそうです。

ベテランの役者さんが作っている「間」は、自分で作っているのではないことが多いそうです。

そこで作られている「間」は、観客との間で生まれてくるもののようです。

観客が変われば「間」も変わってくるので、同じセリフであっても日によって「間」が変わってくるそうです。


観客との間に生まれてくるものは、言葉では表現しにくいことのようです。

舞台に対してののめりこみ方と言ったらいいのか、理解の仕方と言ったらいいのか、そんな感覚のことのことのようです。

ベテランの役者さんになると、舞台のストーリーとして役を演じてはいるものの、観客との間で何かのやり取りが感じられるようになるようです。

それによって、自分の思い以上に乗せられたり実力以上のものを引っ張り出されたりすることがあるそうです。


同じセリフを言っていても、「間」が異なるのは、観客の「間」に入っていくことによって、観客の「間」と同化していくことによって起こっているようです。

その時の感覚は、劇場全体の感覚が一つになっており、観客と一緒に演劇をやっているような感じになるようです。


舞台の上で演じていると、客席のエリアによって「間」に違いがあることが感じられるそうです。

場が進むにつれて、ある種の「間」が広がっていき劇場全体が同じ「間」で呼吸をしているような状況ができることがあるようです。

この状態で演ずることが最高の喜びになってるとのことでした。


狙って作れる状態ではないようです。

初めからできる状態でもなく、初めは手探りで試していたり、いろいろなエリアに向けてそれぞれの「間」に合わせたりしているうちに出来上がってくるもののようです。


このことについて意識して脚本を書いていたのが井上ひさしさんでした。

観客と舞台との間に生まれる「間」が、一体感となるのか何となく距離ができてしまうのかを考えていた人でした。

どうやらセリフに対する理解の仕方に関係がありそうだと気づいたそうです。

なるべく頭を働かす必要がなく素直に理解できるセリフとはどのようなものかを追及していた人です。


客席に届きやすい音や言葉とはどんなものか、考えなくてもスッと入ってくるセリフとはどんな言葉かを追求していました。

そのために意識したのが「やまとことば」だそうです。

わかりやすく言えば、ひらがな言葉と言ってもいいのではないでしょうか。


漢字の音読みでしか表現できない言葉をなるべく使わずに、訓読みとひらがなによる表現を多くするように心がけたそうです。

更に、聞きなれない言葉については、できるだけ「う行」「お行」で始まることばを使うことを避けたそうです。

これば、母音の届き方から思いついたことだそうです。

母音は口先に近い方から奥に向かって、「い え あ お う」の順で発せられる場所が異なっていきます。

口先の端に近いところで発せられる音が「い行」であり、一番喉の奥の方で発せられてる音が「う行」のものになります。


どんなに朗読や発声の上手な役者さんで合っても、「う行」で始まることばの頭の音は届きにくいものとなります。

井上先生の話に登場する銀行はいつも「三菱銀行」でした。

「三菱」は4音のうちに「い行」の音が3音も入った、はっきりととてもよく届く言葉です。

「住友」は、頭の「す」の音がどうしても聞き取りにくい音になりますので、少し後ろの席になりますと最初の「す」が消えてしまい「みとも」と聞こえてしまうのです。


聞き取りにくい言葉や知らない言葉を受取ると、前後の言葉からその言葉を類推することが起きます。

理解できる言葉ばかりで、気持ちよく流れていたところに、考えるための「間」ができてしまうことが起こります。

それでも、早めに言葉が見つかれば次の言葉を逃さず受取ることができますが、少し「間」が長くなると次の言葉の初めのところを受取ることができなくなります。

気持ちよく流れていた理解に、穴が開くことになります。

この穴が増えてくると、頭を使うことが増えているのに理解しにくいことになってしまいます。

すごく疲れる活動となる。


舞台と客席の「間」が合うとは、この理解のための時間がきちんと取れていることになります。

少なすぎれば理解が追いつきませんし、多すぎれば「間」が悪くなってしまいます。


もう一つの「間」は、言葉なくして伝える感覚のことです。

言葉がないことによって、観客が想像をすることになります。

日本人はこの「間」に慣れています。


西洋人は、この「間」に慣れていません。

洋画のセリフのない場面は、派手なアクションや爆破崩壊など何かが動いてる場面です。

すべてのものが完全に静止している場面は、まずありません。


日本の劇や映画は、そもそも洋画に比べるとセリフが少ないです。

余分なことを言わずに、感じ取ることを良しとする精神文化の現れです。

更に言葉がない場面がいたるところに出てきます。

この「間」は観客の想像に任せているのです。

そかし、そこでできる想像はそこまでの流れの中で、ある程度コントロールされているのです。


すべてを語らず、しかも誰しもが同じセリフを思い浮かべることができる。

これが日本人であることの究極の技ではないでしょうか。

こんな技法に導かれると、思わずうなってしまいますね。


テレビでの話がうるさく聞こえる年になってきました。

言っていることがわからないことが増えてきました。

そのことについて、確認することも煩わしくなってきました。

特に情報番組のせわしなさは気持ち悪くさえあります。


今から思うと、「笑っていいとも」は私たちにもわかりやすい「間」を持っていましたね。

タモリさんが持っている「間」が、私たちの「間」に合っていたのかもしてません。

このようなことを「間に合っている」というのでしょうか。


しっかり理解してもらうためには、「間」が大切ですね。

場面や内容に合わせて、使いこなせなければいけません。

「間」が悪かったり、「間」違ったりしないように、しっかりと「間」を意識しましょう。




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