日本人の好きな言葉の一つです。
そのわけは、悟りという訓読みを見ればわかります。
インド仏教は中国に伝わることによって漢語となりましたが、そこに訓読みはありません。
訓読みは、日本において漢字の持つ意味に対して、文字のない時代より伝承されてきた「古代やまとことば」の音を充てたものです。
「さとり」という音は、漢語のやってくるより前より日本に存在していたものだと推測することができます。
音を充てられた「古代やまとことば」である「さとり」は、漢字の持つ「悟り」の意味と近い意味を持っていたものと推察することができます。
また、元の「古代やまとことば」の方がかなり広い意味を持っている場合の方が多くなっているために、もともと「古代やまとことば」が持っていた意味としての感覚よりも、「悟り」の方がより限定された具体的な意味となっていると思われます。
そのようにして「さとり」を見てみると、面白いものに出会いました。
「さとり」という名の妖怪の存在です。
その妖怪は、飛騨や美濃の奥に住んで、人の心を見透かす能力もっているとなっています。
人の言葉や意図を理解しているけれども、人に害を与えることはないとされ、この妖怪を捉えようとでも思ったら先に見透かされて逃げられてしまうとなっています。
この「さとり」には漢字が充てられており、一文字で「覚」と送り仮名なしで記されています。
冒頭の「悟り」については同じ意味と読みで使われる「覚り」という字があります。
この妖怪の持っているとされている能力との類似性がとても気になるところです。
このように見てくると、もともとの「古代やまとことば」としての「さとり」が持っていた感覚も、人の心に関係するものか、あるいは何かを見通すということに関係するものではないかと考えることができます。
また、この二つの文字を合わせると「覚悟」という文字になります。
何とも象徴的な文字が出てきたものです。
一般に「覚悟」と言えば、重大な〈決意〉や〈決心〉を意味する事になりますが、仏教用語としての覚悟は少し意味が異なります。
仏教でいう「覚悟」は、真理を〈さとる〉、真理に〈目覚める〉ことを意味します。
覚も悟も同じく〈さとる〉ですが、覚は不覚に、悟は迷に対して用いる言葉となっています。
今まで理解していなかったり、気が付いていなかったりしたこと(不覚)に対して、新たなひらめきや理を見つけることを「覚り」と言い、迷っていたことに対して解決の道が見えることを「悟り」と言っているようです。
「涅槃経」という経典には、「仏とは、覚と名づく。既に自ら覚悟し、また能く他を覚す」とし、覚悟を得た人を「仏」と尊称しています。
また、覚者という言葉は仏を表す言葉として使われています。
覚悟という言葉は、中国にも古くからあり、インド仏教が中国に伝わって漢語になる前から、漢語としての覚悟という言葉が存在していたと言われています。
インド仏教では、中国語の覚悟と同様に「悟る」という意味にあたる言葉がたくさんの種類使われているそうですが、その多くが中国語訳となった時には覚悟という言葉に訳されているそうです。
かつて仏教は、今よりもずっと身近な存在であったと思われます。
仏教の専門用語であった言葉が、生活のなかで根付いて一般的な言葉となっていたものがたくさんがあります。
ヨーロッパから新しい文化や考え方が一気に導入されて、新しい訳語が大量に必要となった明治維新期においても、仏教用語から引用された言葉がたくさんありました。
特に民主主義の基本とも言えるような、人間の存在に関する言葉には多くの仏教用語が利用されています。
権利、演説、義務、知恵、法、利益、なども仏教用語からの転用となっています。
日本人になじみのなかった民主主義の基本的な考え方に、仏教用語が多く利用されたことは、生活の中にしみこんでいた仏教の感覚によって民主主義が受け入れやすいものになったことを示していると思われます。
また、人は死んだら仏になるという教義は、絶対的な存在として人から離れた関係にあった神に比べると、はるかに身近な存在であったことが伺えます。
覚悟することによって、生きながらも仏になることすらできるとされています。
内なる自分と向き合い、新たな「覚り」を見つけ、迷いに対して「悟り」を続けていくことが人としての最高のことであるとしての理想をおいてきました。
この感覚は、言語にも残っており、日常の生活にも継承されており、日本人の感覚の根底にあるモノだと思われます。
同じ仏教を持ちながらも、政治権力の道具として利用され続けた中国に比べると、一般的な生活文化への精神的な影響は、インドに近いものとなっているようです。
「悟り」の文化は、自己と向き合うことが基本であり、外の変化をもその源を自己に求めるものです。
やがてそれは、自然との一体化となり、生かされている自己へと向かっていくわけですが、この感覚は言語の伝承の中心として日本人の独特の感覚となっています。
相手との違いを発見することに重きを置き、自己の存在を絶対的なものと考えその価値を自ら主張するという欧米の精神文化とは対極をなすものとなっています。
共通感覚のある者同士のコミュニケーションでは、何も問題とならなかったことが、国同士の問題となると小さなことまで取り上げられるようになってきました。
そのことを利用して、国民の目を国内政治からそらさないと、政権や国体を維持できない国がたくさん出てきてしまいました。
他の国と精神文化の大きく異なる日本は、世界的に見た国力のポジションと直近の戦争における戦争責任国という、実にターゲットにしやすい歴史を持っています。
しかも、どんなに批判しようとも外交の最終手段としての武力を使用できない交渉下手の国となっているのです。
いたるところで違和感を感じることが起きていませんか?
悟りの文化で、もう一度日本を見つめなおせば、いろいろな知恵も出てくるのではないでしょうか。
どんなことが起こるかわからない環境が続いています。
一人ひとりがしっかりと覚悟を持って臨みたいですね。
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