2014年8月19日火曜日

江戸城の門の名前(1)

江戸城にはいくつの門があったかわかる人はいるでしょうか。

今の皇居として残っている門や門跡だけでもたくさんあります。

江戸時代の地図を見てみるといろんなことが見えてきて面白いです。



これが一つの見方です。

この地図が描かれる少し前くらいまでは、関東平野は利根川や荒川が江戸を通って常に氾濫している大湿原でした。

少し雨が続けば泥沼化していたところです。

現在より5メートルは水位が高かったと思われます。


秀吉から関東に封じ込められた家康は、大治水事業を敢行します。

何代にもわたり関東平野を、治水と干拓によって一大富の産地に変えていったのです。

その第一弾が、利根川の水域変更事業です。

江戸へ流れ込んで関東平野を荒らしまくっていた坂東太郎(利根川)を、江戸を経ずにそのまま太平洋へと流れを変えたのです。

関ヶ原の戦いの前から手を付けて、長年の歳月をかけて家康が成し遂げた大事業です。


家康は都市づくりの天才です。

100万人を数えた江戸の人口のときであっても、その人口を賄うことができる食料と水を確保することができたのです。

世界でもどこの都市でもできなかったことです。

堀の一部に海水と混ざらない飲み水が確保できるように、江戸用の大きな溜池を確保しました。

今の赤坂・溜池山王のあたりがそうです。

古地図でも大きな池を見ることができますね。


上の地図で見ても、お城から東京湾までの近さがわかると思います。

江戸城の改修に伴って大型河川を利用した堀が幾重にもできていったのです。

この地図ができた当時は、海外から地図が伝わり始めたばかりです。

したがって、北を上にするという彼らの地図の書き方は、日本においては定着していません。

地図の中の重要な目印を正面(下)から見るという形で書かれたものがほとんどです。


京の都の古地図は、都が北を背に造られているために、西洋式の表示方法と向きが合っているために、現代でも違和感なく見ることができるのです。

上の江戸の地図は真上が正確に北にはなっていませんが、東京湾を下側に見ることができる配置にするとこのような向きになります。

または、あと90度回してしまって、以下のようになるかもしれません。


江戸の中心は何と言っても江戸城です。

そうです、「御城」と書いてある文字を正しく読むためには、向きを変えなければなりません。

二番目の地図では「御城」が逆さまになっているのです


このような向きになります。

東西南北の感覚はなく、京の都と同じように、一番の中心の正面が下側に来るようになっている訳です。


このように見てみると、御城の正面に下から大きな道(黄色)がつながっているのがわかります。

外堀のところが現在の四谷見附であり、桜で有名な大きな土手と上智大学のグラウンドや総武線の線路側が堀だったところです。

市ヶ谷あたりでは釣堀もあって堀が残っていますよね。

ここに大きな重要な四谷門がありました。


そこから御城に向かって突き当たったところが半蔵門です。
(逆さまの地図に門の名前が入っていますので、確認できます。)

つまりは、江戸城における正門は半蔵門だったのです。

江戸城には大手門のような大門6、 諸門60、二之 曲輪 ( くるわ ) 外曲輪の半蔵門など26、合計92門があったと言われていますが、明らかに人の名前がついている門は半蔵門だけです。

しかもそれが江戸城の正門の名前になっていたのです。


半蔵門の由来はズバリ服部半蔵です。

何で、一介の忍者の名前が、天下に君臨する御城の正門の名前になっているのでしょうか。


半蔵門に続く大きな道は新宿通り、甲州街道です。

他の街道はすべての起点が日本橋であるのに対して、甲州街道だけは江戸城(半蔵門)がずっと起点のまま置かれていました。

すべての街道のなかで、江戸城につながっている街道は甲州街道だけです。


他の門はすべてと言っていいくらい、堀沿いの道から堀や堀とつながった川に掛かった橋を渡らなければ門にたどり着くことができません。

中には、戦略的に跳ね上げ橋になっているところもあります。

半蔵門だけは橋がないのです、地続きで城内に入れる門なのです。

甲州街道は、江戸城まで台地になっており、その馬の背を街道が走っているのです。

湿地帯の関東平野を半島のように台地が走り、その先端に江戸城があったのです。


半蔵門は橋ではなく台地の続きとして、街道のまま城内に通じることができる唯一の門なのです。

半蔵門は今も皇室の天皇にまつわる公式行事の時だけに、しかも皇位継承者だけが通ることができる門となっているようです。


地続きの門であり、城の正門ですので、一番警戒を厳重にしなければなりません。

攻める側から見れば、一番多くの軍勢で攻め込むことができる地形になっているところです。

今の四谷から半蔵門までの地名にその名残が残っています。

上智大学のあたりは紀尾井町です。

御三家の紀州家・尾張家と大親藩譜代の井伊家の下屋敷が見えます。

半蔵門に近ずくと上屋敷も見えます。

御城に向かって左側は麹町・番町です。

親藩譜代の屋敷で固められていると同時に、旗本親衛隊の一番隊・二番隊などの詰め所があったところです。

大きな敷地には松平の名前も見えます。

どこよりも身内の力のある藩と一番信用できる身内の屋敷で固められている地域となっているのです。


なぜ、こんなに大切な門に、服部半蔵の名がついているのでしょうか。

本題に入るまでの前置きが長すぎました。

名前の由来の正確なところはわかりません。

しかしわからないからこそ、楽しい推論ができるのではないでしょうか。


東京駅側の大手門でも、西の丸正門でもなかった江戸城の正門の名前が、半蔵門であることの推論は次回に譲りたいと思います。





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