音読みで「イ」、訓読みで「えびす」となっています。
古代中国の文献にも見ることができる漢字であり、中国から渡ってきたものであることは間違いないようです。
この「夷」の一文字で日本の歴史のほとんどを語ることができることをご存知でしょうか。
しかも、それが表層を流れる移り変わりではなく、「夷」から見るとそれまで「?」と思いながらも覚えていたあらゆる歴史に納得のいく説明がついてしまうのです。
多くを語ることはできませんが、古くから順番に見てみたいと思います。
まずは、中国にある一番有名な「夷」は「東夷」ではないでしょうか。
異民族の総称、それも秩序の取れていない野蛮な感覚を伴った驚異として呼ばれたものです。
「南西夷」というような、中国から見た南西方向の異民族に対する呼び方もあったようです。
「夷」と言う字を分解すると、「一」「弓」「人」となります。
これは、「手を一杯に広げて弓を引いている人」となって、狩猟をする人となります。
中国から見た東夷とは日本列島に住む民族のことであり、中国が農耕民族としての道を歩きはじめてからも日本は狩猟を中心とした野蛮な民族として見られていたことを示しています。
「夷」の一文字でも富を蓄え共同体による土地に根差した農耕民族から見たら、野蛮な狩猟民族を指す言葉となっていました。
中国における四方の脅威である「東夷、西戒、南蛮、北狄」を総称して「四夷」と言うのも、「夷」の字がそのすべてを代表しているものとみることができます。
土地に根付いた富の徴用と蓄積が京の都で始まったころ、その他の地域ではまだ狩猟による野蛮な生活が続いていました。
東が「蝦夷」と呼ばれ、西が「熊襲」と呼ばれていたころです。
太平洋側から東・北に進む軍を率いる将軍を征夷将軍と呼び、日本海側を北に進む軍を率いる将軍を征狄将軍(鎮狄将軍)と呼び、九州の熊襲退治に向かう軍を率いる将軍を征西将軍(鎮西将軍)と呼んでいました。
狩猟民族においては日常生活そのものが武力演習であり、狩猟の対象を求めて移動する機動力にとんだ能力を備えています。
農耕民族においては富の蓄積が可能になってきますので、富を生み出す土地と蓄えた富を守るための倉庫と力が必要になります。
農耕作業は毎日が天候との戦いであり、戦との併用は結果として富の削減を意味することになります。
そのために農耕従事者とは別に力を発揮するための専門集団が出来上がってきます、これが武士の始まりです。
都から見た時に一番大きな地域に一番大きな戦力を持って存在していたのが、関東から北海道までの狩猟民族を指した「蝦夷」です。
中央農耕権力による九州までの平定が完了しても、「蝦夷」に対しての平定は多くの時間と労力を必要としていました。
都は消費する地域です。
そこに暮らす人が増えるほど外からの収穫物(富)の移動が必要になります。
狩猟民族を平定し農耕を教えて徴用していくことが都を支えることになります。
難攻を極めた「蝦夷」平定の歴史は軍の優秀な統率者の任命と戦力の充実が必要となり、やがては武力の最高統率者としての役職名称が征夷(大)将軍と言われるまでになりました。
「東夷」に対する将軍職としては、709年に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が初めだと思われます。
征夷大将軍という名称としては、794年に征夷大将軍の大伴弟麻呂に刀を授けるという記述が日本記略にあります。
天皇(朝廷)によって任命される軍事指揮官であるとなっています。
その後は、征夷大将軍の称号は武家の最高峰を表すものとなり幕府を拓く権威の象徴となりました。
天下統一をしながらもこの職に意欲を示さなかった者は豊臣秀吉だけであり、関白という役職により朝廷においてもその権威を伸ばそうとしたものです。
では、いつまで「夷」である狩猟を中心とした一族が力を持って存在していたのでしょうか。
辺境の地ではなく、中央の舞台にも上った最後の「夷」はどんな勢力だったのでしょうか。
それは、関ヶ原の戦いに見ることができます。
徳川家康は全国統一を完了した秀吉により関東に閉じ込められました。
そこで泥沼の関東でひたすら荒れ狂う河川たちとの戦いを通じて、関東平野を一大富の産地に変えていきました。
東京湾に流れ込み荒れ狂っては氾濫を繰り返していた利根川を直接太平洋へ流れ込むようにして、関東平野を迂回させたのは家康です。
その家康は典型的な農耕君主です。
最後の「夷」は毛利ではなかったでしょうか。
関ヶ原の戦いの西軍の総大将を石田三成だと思っている人が多いようですが、大阪城にこもって総大将を演じたのは毛利輝元です。
輝元は一歩も大阪城を出ることはなく、西軍の敗北が決まった後はさっさと自国の広島城に帰ってしまいました。
中国・瀬戸内海を領土としていた毛利の土地は、ほとんど農耕ができませんでした。
今よりも数メートルは水位が高かったと思われる当時は、急な山地を駆け降りた河川は狭い平地で荒れ狂いすぐに海岸線に至ってしまいます。
平地は極めて少なくほとんどは泥地や湿地帯となっていました。
農耕ができる条件ではありませんでした。
毛利は海賊をまとめ上げて水軍を武器にしてきた一族です、海産物によって成り立っていた国です。
険しい中国山地の山裾から中腹にかけて城を築き、すぐに山中へ逃げて生活できるようになっていました。
広島城は反対に海に面した城です。
狭い平野で荒れ狂う川によって作られた一番広い洲(島)に建てられた海のための城です。
家康の平定後は何代にもわたった大名の戦力削減策によって大型船の製造や築城を禁止され、海運は幕府の許可制となってしまい最後の狩猟一族が消えていったのです。
その後に「夷」が登場するのは幕末です。
ペリー来航以降の海外の列強による西洋文明が日本に激震を与えた時代です。
国内世論は「尊皇」と「佐幕」の真っ二つに分かれてそれぞれに列強が武器を含めて援助するという、国内分裂から列強による分割統治への道をっまっしぐらに進んでいくはずでした。
しかし国内世論が蒸気船という巨大な戦力で航海してきた欧米人を「夷」と定義したのです。
これによって「攘夷」と言う一点において日本は一つになり、最大の危機を乗り切っていったのです。
農耕する日本人は、外国人を狩猟する民として対峙することによって結束を強めたのです。
朝廷中心の尊皇派も幕府中心の佐幕派も「攘夷」では一致したのです。
やがて、近代化の中にあっても「攘夷」は稲作民族の日本人の集団性を強めて、富国強兵に役立ったのです。
「攘夷」の旗のもとで清国、ロシアを破り、植民地化の危機を脱したうえに世界最後の帝国にすべり込んでいったのです。
稲作によって作り上げられた共同体意識は強烈であり、「攘夷」の意識は近代工業化においても欧米人に対して経済戦争を仕掛けることになりました。
敗戦国、平和の仮面をかぶったままで経済戦争を勝ち続けていったのです。
いまの日本の閉塞感は、明確な「攘夷」の対象が見つけられないことにあるのではないでしょうか。
「夷」の字ひとつでもいろいろなことが見えてきますし考えることができます。
個人のモチベーションにとっても自分だけの「夷」の対象が見つけることができたら、何かが変わってくるかもしれないですね。
今まで得てきた知識を疑うことから始めるのも面白いのではないでしょうか。
私たちが覚えてきた歴史教科書は、かなりの部分が変わっていることをご存知でしょうか。
自分なりの歴史の見方があってもいいのではないでしょうか。
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