服部半蔵がその門の由来と言われていますが、他の門がその土地の名や役割などから付けられているのに対して、明らかに人の名前だと思われるのは半蔵門だけです。
先回見てきたように、半蔵門はそこに至る甲州街道の存在や門の位置などから推察するに、江戸城の正門と言うべきものでした。
その正門に対して、徳川門や家康門ならまだしも、一介の家臣である服部半蔵の名前が付けられている理由がわかりません。
できる限りの頭を絞って考えてみました。
服部半蔵の名が歴史に見えるのは、本能寺の変の時くらいです。
身近な伴を連れて堺に行っていた家康が、本能寺の変を聞きつけて岡崎城に逃げ戻ろうとしたときのことです。
信長と盟友関係にあった家康の動きを光秀が逃すはずもなく、まともに街道を岡崎に戻ろうとすれば、飛んで火にいることになってしまいます。
その時に、伊賀甲賀の難所である山越えをして紀伊半島を反対側にまで家康を護衛して逃がしたのが、同行していた服部半蔵だとされています。
家康はこの時の逃避行を人生の一大危機の一つと考えており、この時の経験がのちの施政において大いに参考になったとしています。
その一つが影働きと言われる戦力の組織化です。
半蔵というのは、武士である服部家の当主に引き継がれた通り名です。
通説に言われる忍者の系譜ではなく、実際に忍者であったのは初代だけだと言われています。
初代は岡崎において松平清康に仕えたとありますので、バリバリの徳川譜代ということになります。
家康に仕えたのは二代目の服部半蔵正成です。
伊賀同心の支配役として仕えており、歴代の当主と同様に石見守(いわみのかみ)という官名を持っています。
半蔵門の由来の一つには、家康が命を助けられた服部半蔵にちなんでということは考えられますが、部下が主君を助けるのは当たり前であり、しかも一介の同心頭の名前をわざわざつけるにまでは値しないことだと思われます。
家康は、何事にもあらゆる状況を想定してじっくり考えたうえで手を打った人物だと言われています。
部下の手柄だけで、天下の城の正門にその名を残すようなことはしないと思われます。
半蔵門に込められた意味はほかにももっと大きなものがあるはずではないでしょうか。
家康は実際に戦わずして勝つことに執着したと言われています。
そのためには、正確な情報を得ることが欠かせません。
参勤交代で江戸にいる大名については、実に細かなことまで情報を持っていたと言われています。
この役割を担ったのが、御庭番を初めとする服部半蔵をトップとする情報収集部隊です。
目に見える戦力は譜代親藩によって固め、見えない戦力網を構築したと言われています。
見える戦力は動きもわかりますから対応の仕方も考えられます。
見えない戦力には動きも規模もわかりませんので、それに備えるためには過剰なまでの対応が必要になります。
家康は見えない戦力の恐怖を植え付けるために、半蔵の名を利用したのではないでしょうか。
目に見えない戦力への恐怖は、見えるものよりもはるかに大きなものとなります。
半蔵門のそばには半蔵をトップとした伊賀同心が数百名配置されていたことがわかっています。
さらにその情報網は階層的に広がっており、直接の武家屋敷はおろか武士の集まる茶屋や酒場にまで配置されていたことがわかっています。
見える戦力としての徳川譜代親藩と何百丁の銃を常備した鉄砲隊の配置や、見えない戦力の代表としての伊賀者のトップとして継承されている半蔵の名を利用して、絶対に破ることができない門としての位置づけをしたのではないでしょうか。
四谷の大門から半蔵門までの戦力持ってすれば、仮に江戸城が占領されても十分に取り返せるだけのものであったようです。
大名の登城にも使われることがなかった半蔵門は、直轄領である甲斐との連携において機能していたと思われます。
五街道の中で一番短い甲州街道沿いには外様を配さず、やたらと多い神社や寺、直轄地は何を物語っていたのでしょう。
下諏訪で中仙道に合流する甲州街道は、下諏訪から江戸までは中仙道よりも距離的には短くなっています。
それにもかかわらず参勤交代で甲州街道を通ることを許されたのは、わずか三藩だと言われています。(信濃高遠藩、高島藩、飯田藩)
他の藩は、遠回りになろうとも中仙道を使わざるをえなかったようです。
それだけ大切な街道であり門であったことの証ではないでしょうか。
半蔵門を今の地図位置で見ると、裏門に見えます。
見方によっては、江戸城を責められたときの甲斐への逃走ルートと説明しているものも多くあります。
どれを取っても絶対ではないようです。
門の名前ひとつから見えてくるものもたくさんありますね。
たまには地図を北を上にしないで考えて見るのも面白いですね。
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