この感覚は日本語を母語として育った場合に、ほぼ5歳くらいまでに出来上がってしまうものです。
生まれて初めて触れる言語として、日本語を持っている場合には自然の音を言葉として捉えることができるようになります。
風の音を表現するのに、「そよそよ」「ひゅうひゅう」「びゅうびゅう」「ごうごう」などや、虫の声を表現すのに、「りーんりーん」「ころころ」「すいーっちょ」などですね。
西洋言語においては、これらの音は自動車や機械の音と同じように騒音として感じるようです。
音楽についても、日本語の昔からの音楽である雅楽や三味線・尺八などはその音を言葉で表現できることによって、技術を口頭で伝承することが可能でした。
その伝える内容によって一子相伝や免許皆伝などの師弟関係による技の伝承が可能になっていたと思われます。
言葉として捉えることで他の言葉と区別することが容易にできますので、屋外における自然の音の中での音楽も何の抵抗もなく楽しむことができたわけです。
西洋音楽については、密室空間において外部の音を遮断した状態にしないと音楽を楽しむことができなかったと思われます。
風の音や虫の声といっしょになると、雑音が邪魔をして音楽そのものを切り分けすることができなかったのでしょう。
この日本語の感覚と同じように、自然の音を言葉として感じることができる言語が見つかっています。
ハワイ南太平洋のポリネシア語です。
両方の言語に共通することは、ほぼ完全に近い母音言語であり、その母音の数が限られた少ない自然母音でなりたっていることです。
この共通点が、直接に自然音を言葉として受取ることにつながるのかどうかはわかっていません。
しかし、文字のない時代に人が初めて口にした言葉としての音は、無理なく発することができる自然な音であったことであろうことは想像に難くありません。
母音の中にも、人工的に作られた音がたくさんあります。
中国語では母音の数だけでも100以上あります。
子音は声帯を使わない音です。
息を使って舌や歯・唇や口腔で変化をつける音です。
声帯を使って声として発する自然母音に比べると、響きにくい届きにくい音となっています。
発声と発音の違いにも、このあたりのことが反映されているのかもしれません。
中国で作られた漢語は、日本にわたって仮名を生み出すもとになりました。
漢語は公の言葉として政治や仏教を中心として使用され、公式なことを記録する文字として使用されてきました。
日本で漢語から生み出された仮名は、和歌と言う仮名表現を発展される場を得て、日本独特の文化を象徴するものとなっていきます。
皇室・皇統における公式文書は漢語ですが、普段の生活における議論や会話の言葉は「やまとことば」であり、文字にすれば仮名であったと思われます。
公的なことを書き残す、書き記すということに使われたのが漢語であったろうと思われます。
中国から渡ってきた文化は、漢語で導入されました。
やがてその文化は、仮名の発展とともに日本独自の文化として中国文化のしがらみから離れて発展していきます。
漢語として残っている記録の裏にある、仮名の発展に伴う文化の推移を想像することはとても楽しいことです。
仮名が現代ひらがなに近い文字の記録として現れてくるのが「古今和歌集」からです。
それまでにあった勅撰の記録は漢詩集でした。
古今和歌集からの勅撰の記録は、和歌集となっていきます。
そこでの2大テーマは、移りゆく自然の描写と人の心の描写です。
和歌という表現形式のなかでこれらのことを伝えるために、仮名よる表現の技術が一大発展していくことになります。
ここでは中国から伝わった暦に日本独自の発展を加えた自然の移り変わりを意識したものとして、二十四節気と七十二候を見てみたいと思います。
一太陽年を二十四等分して、その一つずつにその時々の季節として名称を与えたものが二十四節気です。
15日ごとに季節としての名称がついていると思ったらいいですね。
重要な節気として、角にある四つの立春、立夏、立秋、立冬のことを四立と呼ぶこともあります。
また、それぞれの季節の真ん中のにある特に重要な節気である夏至、冬至を二至、また春分、秋分のことを二分と言い、あわせて二至二分とも呼びます。
そして、四立と二至二分を合わせて八節と言います。
この二十四節気を5日ごとに、初候・次候・末候として三つずつ細分化したものが七十二候です。
どちらも中国から持ってきたものですが、長い年月を経ることによって日本の季節に合わせて変更されてきています。
ここでは季節として夏にあたる時期の七十二候を取り上げてみます。
思わず、「なるほど」と思う名称や「?」と思うものなどさまざまですが、5日ごとに自然の変化を身近に感じる感覚が伝わってこないでしょうか。
歌に詠まれているものもたくさんありますね。
季語として使われるものもあります。
信仰の対象として人を設定した文化は、他の信仰を排除して人の利便性と人が生きていくのに都合がいい文化を作ってきました。
方や、信仰の対象として自然を設定した文化は、様々な信仰が共存しながら自然の中に生かされている人を文化の中心に置いています。
一方では、人の技術や文化の発展によって自然をコントロールしようとします。
そこでは、人をコントロールすることも当たり前のように行われます。
またもう一方では、変化する自然の中で適応しながら生きていこうとします。
お金に関する捉え方ひとつ見ても元の感覚が見えるのではないでしょうか。
浄財という言い方があるくらいですら、もともとお金に対しては不浄なものとしての感覚があると言うことです。
日本語は、和歌によるひらがな発展のなかで、自然を表す言葉をたくさん産んできました。
一般的な言葉として使われてるもののなかで、植物の名前や自然の色を表す言葉の多さは他の言語の比ではありません。
その感覚はひらがなを継承している私たちに、しっかりと根を張っています。
もう一度、自然を表す言葉を見直してみたいですね。
絶対にみんなが好きな言葉がたくさんありますから。
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