2013年10月11日金曜日

「現代やまとことば」を使おう

やまとことばについてはいろいろな人が定義をされていますが、定説はないようです。

言葉としての「やまとことば」自体がとても響きのいい言葉ですので、なんとなく使ってみたくなるものではありますが、意味がよくわからないと心苦しいところもあります。

「大和言葉」よりはひらがなの「やまとことば」のほうが、実態を表しているように感じるのはわたしだけではなさそうです。



そうは言ってもそれなりの定義がないと言葉は使いにくいものですので、私なりの解釈をしてみることにします。

年代的に古いところに「古代やまとことば」があると思われます。

漢語が入ってくる以前から、話し言葉として使われていた古代日本語ともいえる言語です。
生活に必要な基本的な言葉しかなかったと思われます。

歌に使われた言葉がこれであり、万葉仮名の発明によって文字を与えられた言葉たちです。


次が「やまとことば」です。

一般的な解釈とも一番近いものではないでしょうか。
万葉仮名が発明されて以来、かなで表現されてきた言葉たちです。

濁点、半濁点がなく蝶々を「てふてふ」と書き表していたころのことばです。

第二次大戦までの言葉がこれに含まれるのではないかと思います。


そして「現代やまとことば」です。

戦後の国語教育の改革によって口語文になることによって、話し言葉と書き言葉が一致してきました。

漢字の訓読みと元来のひらがなことばを合わせて「現代やまとことば」と呼んでいます。

ここには「古代やまとことば」から2000年を越えてつづく言葉が中心にあります。

更には、さまざまな存在の危機を乗り越えて現代に伝わってきた言葉たちを、現代においても実用として使用できる環境にあります。


現代の表記の中心は「漢字かな交じり文」ではありますが、実際の生活においてはカタカナや英語すらも混ざってきており、それら抜きではむしろ不自由な環境となってきています。

言葉は日々変化しており、その意味するところも時代環境に合わせて移っていきます。

古き言葉の意味合いは、その言葉の使われた時代環境においてこそ意味を持つものであり、古代の単語として英単語を覚えるかのように覚えても意味のないものです。



「やまとことば」は母語の中核をなすものとして、継承され続けてきました。

母親から子供に伝わる母語は時代において、階級において、個人においてそれぞれ微妙に異なるものとして継承されてきています。


本来の日本が持つものを表現するときには、「やまとことば」が一番的確な表現を手助けしてくれるのではないでしょうか。

現代においては「現代やまとことば」がその役割を担ってくれるはずです。

外国の言葉や思考が氾濫している現代ではありますが、よくは分からないがどことなく違うなという感覚がある場合がありませんか。

そんな時こそ、母語の持っている感性が拒否反応を示しているのかもしれませんね。



一度「現代やまとことば」に置き換えてみるということをしてみませんか。

新しい発見や、気づきがある可能性が高いと思いますよ。


人は言葉でしか表現することができません。
図は言葉をイメージ化したもので、言葉の補助にはなりますが言葉に替わることはできません。

人に理解してもらうためには、相手が理解できる言葉で表現をしなければけません。


また、人に動いてもらうためには感情を動かさなければいけません。
感情を動かす言葉で表現をしなければいけません。


そのどちらもお互いが感性として持っている母語が大きな働きをします。

その母語の中心にあるのが「現代やまとことば」です。


「やまとことば」の対極にあるものが外来語です。

「やまとことば」を基準に考えれば、漢語も外来語です。

「現代やまとことば」には漢字の訓読みは含まれますので、音読み漢字、英語、カタカナ、アルファベットなどが外来語と言えます。

特に明治維新の時には新しい漢語(漢字)の組み合わせを作って(和製漢語)、ものすごい量の外来語に対応してきました。


現代は外来語があふれています。

しかし、外来語では本当の理解ができないのではないのでしょうか。
外来語で本当の感動を与えることができるでしょうか。

お互いの理解を深め、感謝と応援を現実化するためにも、もっともっと「現代やまとことば」使ったほうがいいのではないでしょうか。