思考が言語によってなされていることは何回か触れてきました。
その中で、言語の限界が思考の限界であることも触れてきました。
人が身につけている言語は、基本的な伝承語である母語、学習言語によって身につけた第一言
語、後天的にコミュニケーションの道具として身につけた第二言語などがあります。
それぞれの言語の特徴を簡単に見てみましょう。
母語は読んで字のごとく、母親から受け継いだ言語です。
幼児期(2~4歳)に方言も含めて母親の個性をそのまま受け継ぎます、同じものは存在しないと
言えるでしょう。
例え兄弟であっても、まったく同じということはあり得ません。
個人レベルでの多様性はかなりなものだと思われます。
小学校に入ると、母語の上に知識を習得するための学習言語を身につけます。
画一的な教育による知識の習得が目的ですから、没個性的な共通言語となります。
全国的にほぼ同じカリキュラムで実施されますので、日本語の共通語的な位置づけになります。
これが第一言語としての日本語になっていきます。
したがって第一言語はほとんど画一的で個人差のないものになります。
差が起こるとすれば、吸収した知識量の差になります。
第一言語の知識量の差だけであれば、現実的な表現の違いにこれだけの多様性が生まれないは
ずです。
第一言語を道具として利用しながらも、母語の段階で存在する多様性(個性)が発現されているも
のと思われます。
通常の場合は、母語と第一言語は言語の種類として同じものになりますので、第一言語の習得は
その一部では母語の強化にもなっています。
第二言語は、通常は第一言語の習得後に必要に応じて身につける、種類の違った言語になりま
す。
イメージとしては母語、第一言語、第二言語はそれぞれ階層のようにして存在しており、それぞれ
の間では通訳が行われていると考えられています。
母語と第一言語が同じ種類の言語であったとしても、少ないながらも通訳がされていると考えられ
ています。
ただし、 バイリンガルの一部では時として、第二言語が第一言語を仲介せずに直接母語との通
訳を行っているとも考えられています。
さて、思考は言語によってなされていると述べてきました。
図からも想像できるように、思考に一番影響しているのは母語です。
ところが我々には、母語を使っている感覚や、どんな母語を身につけたのかの記憶がありません。
母語自体は感覚の中に取り込まれてしまっていて、ほとんど意識することがないものです。
母語を身につけている幼児期である2~4歳ころの記憶がほとんどないのと同じことです。
実際には「ものごころつく」と言われる学習言語を習得している期間となる10歳ころまでの記憶は、
よほど印象的な事でないと残っていないと言われています。
教わったことも聞いたこともない言葉に出会った時、何となくこんな意味合いかなと感じることはあ
りませんか。
とくに、ひらがなで表現された感情や情景を表す言葉に、意味は分からなくとも雰囲気を想像でき
たり、いいなあと感じたりすることはありませんか。
第一言語だけであればこんな感覚は発生しません。
母語として持っているものが感性として感じ取っているものと考えられます。
母語には母親から受け継いだ実際の言葉以外に、歴史的な言葉の持つ感覚が含まれていると考
えられています。
それが、母親の持つ感性からくるものなのか、また言葉そのものが持つものなのかはよくわかって
いません。
母語の代表的な物が「やまとことば」であるということはできると思います。
外にある刺激を思考の参考にしたり、そのものを考えたりするときに必要なものが言語です。
思考は言語でなされますので、写真や絵画は直接的には思考の対象にはなりません。
写真や絵画は言語で理解して初めて思考の対象となり得ます。
思考そのものは本来は感覚的・感情的なものです。
極端に言ってしまうと「快か不快か」だけです。
これについては、またどこかで詳しく触れたいですね。
しかし、感覚や感情においても理解のしやすさというものは存在します。
それが論理です。
論理が単純で整っていることが必要なわけではありません。
論理にするために言語が必要なのです。
入ってくるものを理解しやすくするために言語が必要であり、思考したものを表現するために言語
が必要なのです。
そしてその言語を使って、より自分が理解しやすくるために、また人に理解してもらうために論理が
必要となります。
その中枢を担っているのが母語なのです。
意識できないから厄介ですね。
第一言語を通じてしか意識することはできないですね。
まだまだ役割や影響については研究の途中段階です。
もしかすると完全解明はないかもしれません。
でも「母語」というものが少しずつ見えてきているんですね。
一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っています。