日本語の語感は使う人によってかなり異なります。
また、日本語を使うのが上手な人は、伝えたい相手に合わせて語感を使い分けすることができます。
同じ日本語ですが、語感によって相手に与える印象が変わってきます。
文学作家の作品と学者の論文では語感が異なるように、相手にとってはたまたま自分が受けた語感が日本語そのものの印象として映ることが有ります。
そこで行われていることは、漢字とひらがなの使い分けが中心です。
外国人を相手にした、翻訳されたりすることも前提にした内容では、一つ一つの文章を短くして、主語をしっかり置いた、音読み漢字の多い語感が適しています。
論旨のはっきりとした、結論を前に持ってきた構成が適しています。
まさしく、明治以降に開発された現代日本語の語感が有効になります。
一方では漢字を減らした、ひらがなを中心にした語感は、語ることを中心に、心情を訴えたり、感情の機微を伝える場面に適しています。
現代日本語については学校教育以来ずっと馴染んできていますので、今回はひらがなを中心とした「やまとことば」の語感の特徴について触れてみたいと思います。
わたしは「やまとことば」をひらがな言葉と置き換えて考えています。
厳密に言えば違うのかもしれませんが、きちんとした定義がないのでわかりやす方がいいのかなと思っていますが、古代やまとこばとの違いはあると思いますので、「現代やまとことば」とでも呼ぶことにしましょう。
「現代やまとことば」の対象はひらがなと漢字の訓読みです。
つまり、音としてはひらがなに聞こえるものということになります。
やまとことばの語感はその成り立ちによるものと、語尾変化、文末の終わり方で特徴が出ます。
文字言語である漢語が導入される前から、話し言葉として使用されていたものがやまとことばの成り立ちです。
基本的な動作を表現する言葉である動詞や、祝詞や祈りの言葉に含まれた自然を形容する言葉のほとんどがやまとことばです。
さらに、日本人独特の自然界の音を言葉として聞く感覚を表した言葉もほとんどがやまとことばです。
動きの中で行事やコトとしてとらえれている言葉が非常に多く、現代日本語の得意とするモノとしての物資的な名詞を中心とした表現と大きく異なる特徴を持ちます。
このことが日本語の語感の広さを作っているわけですね。
やまとことばの特徴を語感として生かそうとすると、文の終わり方も考えなければいけません。
自然の流れや人の心の機微など、不安定な浮遊感のあるものを感じさせることが得意なわけですから、「~である。」「~あります。」「~だ。」のような断定的な表現は似合わないことにないます。
「なりにけるかも」などという終わり方は、やまとことばらしい表現ですが、普段では使わない表現ですね。
一番ふさわしい表現はつぶやくような独り言的な終わり方がいいようです。
もともと話し言葉としてしかなかった存在していなかったやまとことばですから、話し言葉を中心に使うことがその特徴を一番表現できると思われます。
文の最後をはっきりさせないほうが、よりやまとことばとしての語感を伝えやすくなります。
「~思いますが・・・。」「~ようですね・・・。」「~あるようですね・・・。」、脚本や台本として記す場合には「・・・」は大変使い勝手がいいと思います。
「~思いませんか・・・。」のような疑問を投げかける表現も上手に使うと、やまとことばの特徴を表現できると思います。
ここまでは「現代やまとことば」の語感を強調する方法を述べていますので、場面によっては誇張しすぎることもあると思います。
どのような語感を好む人であっても、やまとことばの語感はその根底に必ず持っているものです。
しかも母語として身につけた最初の言葉は、「現代やまとことば」ですから、その語感は心地よいものとして残っています。
それに蓋をしているものが、学生生活や社会生活で植え付けられた「ひらがなは漢字に劣る。」という感覚です。
特にお役人を含めた歴史のある組織に多い傾向です。
その中だけでは疲れてしまうから、たまにはやまとことばに触れたくなるのは自然なことなのですね。
映画や演劇・演芸はやまとことばのオンパレードです。
どんな内容でもホッとする感覚になるのは、やまとことばの影響ですね。
学術論文や契約書までいかなくても、毎日触れているのは現代日本語の語感がほとんどです。
その中に少しでも意識して「現代やまとことば」の語感を散りばめることができたら、ホッとする瞬間を作ることができると思います。
誰に何を伝えるのかがはっきりしている場面では、そのための語感に徹する必要もあると思いますが、伝えたうえで相手を動かしたり納得させる必要がある場合は語感の変化はとても有効です。
ましてや心の底では好ましい語感として持っている「現代やまとことば」の語感は、誰にでも通用する心地よい語感と言えるでしょう。