先回のブログの中では、10歳までの国語教育はほぼ完璧だと申し上げました。
その前段階である5歳までの幼児期の母語教育も、よほど間違えた英才教育をしない限り、大きな失敗はありません。
もちろんより効果的に母語を身につける方法はありますが、母性の命ずるままに子供と接していれば自然に身につくものです。
小学校に入ってからは、義務教育の指導要領によってほぼ画一的な授業が行われます。
国語の授業に遅れない限りは、第一言語としての日本語の基礎を身につけることができます。
低学年を担当する先生は、この時点での国語の授業内容への遅れが、他の教科の学習において致命的になることをよくわかっています。
小学校の低学年・中学年で国語の授業に重点を置くのはこのためです。
小学校の高学年にあたる10歳以降に身につけるべきものは、ここまでに身につけた母語や第一言語を使った思考力・表現力です。
ところがこの能力を身につけるための中心的な教科は国語ではないのです。
10歳頃から中学生である15歳頃にかけて国語で学べるのは、漢字を含めた語彙の増強と文法を中心とした文の読解力だけです。
これは古文や漢文でも同じことです。
一部では感想文や作文もありますが表現力を磨くほどの経験はできません。
思考力の源である論理性を学べるのは算数であり理科なのです。
中学へ行けば数学であり物理・化学であり生物・地球・宇宙なのです。
算数・数学では三段論法をはじめとした各種論理・定義・証明方法を学びます。
自然科学分野では実験や観察を通して、人体や物体がなぜ存在するのかをはじめとした原因と結果や構造・法則を学びます。
せっかく学びながらそれぞれの教科の中での特殊言語としてしか使用される機会がないのです。
普段の思考や表現で使用することは考えていないのです。
教えている方がそんなことは考えてもいないのですから、受け身の生徒が自ら考えることはほとんど無理だといえるでしょう
そもそも学校教育の場においては、人の意見や考えを引出し、自分の意見をわかってもらえるように表現する場はほとんどありません。
ところが、人間の本能というか習得能力はすごいものがあります。
小学校の高学年から中学校にかけて気づかないうちにやっていることがいくつもあります。
モーターやぜんまいで動くおもちゃを分解したりしませんか?
どうして動くのか知りたくて分解して、今度は組み立てられなくなったりしませんでしたか?
これは論理性探求の行動の一つなのです。
プラモデルや組立おもちゃを始めたりしませんでしたか?
ラジオを分解したり組立てたりしませんでしたか?
実験になると楽しくてしたかなくありませんか?
文学書よりも推理小説や発見・発明物語を好んで読みませんでしたか?
これも論理や原理や因果関係などを追及しようとする行動なのです。
交換日記が流行りませんでしたか?
日記を書き始める人がいませんでしたか?
詩を書く人が出始めませんでしたか?
漫画を描く人がいませんでしたか?
これらは自分を表現しようとする行動なのです。
この時期に適切な道具と環境を整えてさえあげれば、自然に必要な時期に必要な能力を身につけるのです。
個人差はありますが、今がその時期ですよというサインは出ているのです。
実は、いじめが一番悲惨な結果を引き起こすのがこの時期です。
人の考えや意見の引き出し方や自分の思っていることの表現の仕方がわからないのに、言葉だけは持っている時期なのです。
思春期でもあり精神的にもとても不安定な時期でもあります。
まさしく大人の頭で論理的に考えられるようなことではないのです。
未熟な思考力と未熟な表現力がより成長を求めて表に出た一つの形がいじめではないかと思っています。
この時期の思考力や表現力を磨くための行動は、現在の学校教育では実施不可能です。
この時期に論理的な思考を身につける一番の方法は、様々な論理や原理が展開される本を読むことです。
世界中の数学や自然科学の主要な理論はほとんどが日本語に訳されています。
他の国に比べたら贅沢なくらい翻訳本が存在します。
さらにこの時期に人の考えを引き出し、自分の考えを表現できる方法を身につけるためには、積極的にコミュニティに参加し自ら発信して、いじめにならないように賛同や批判される経験をすることです。
クラブ活動がそれに当てはまる場合もあるでしょう、スイミングスクールが当てはまるかもしれません。
野球のリトルリーグやサッカーのジュニアユースやスポーツ少年団の場合もあるでしょう。
ボーイスカウトや地域の子供会かもしれません。
日本の国語教育で一番欠けているのがこの時期の対応だと思います。
国語だけで対応できる問題ではないのかもしれません。
しかしイニシャティブを取るべきは国語科だと思います。
せっかく10歳までの言語教育はほぼ完璧にできているのに、言語教育の完成形ともいうべき思考力と表現力の育成を考えないわけにはいかないと思います。
子供たちにすればインプットばかり求められ、そのインプットの量だけをチェックされて、アウトプットのための機会や技術を与えられないことになります。
教える立場からすれば画一的な知識の詰め込みに徹する方がはるかに簡単ですし楽にできます。
しかし、子供たちが自立して生きていくためにはどちらが必要かは明白です。
世界に誇る、世界がうらやむ言語を持っている日本だからこそ一層必要なものだと思いますが。