10歳ころまでの母語習得から第一言語を習得するまでの言語教育はほぼ完璧であると述べてきました。
このテーマの(1)で登場いただいた坂本芳明先生が経験した、10歳以降の言語教育における象徴的な場面を、アメリカと日本の2つ紹介したいと思います。
まずはアメリカの中学生・高校生の教育事情を視察に行かれた時の話しです。
中学生の話す力量に圧倒されたそうです。
あいさつだけでなく、学校の案内、受け答え、すべて臨機応変に笑顔で対応する姿は自然なものであり、型にはまったものはなかったそうです。
高校生においては「大統領選挙においてどちらの候補に投票するか」について白熱した議論を交わしていたところでした。
A 候補、B 候補どちらでもいいのであって、話す前に、推挙する理由を明確にし論理を組み立て、周到な準備をしていることは容易に見てとれたそうです。
欧米には、「君の考えは、その根拠は」と、小学生から、教科だけでなく生活場面でも求められる風土があるのだと教えられたそうです。
その議論の内容は先生が教えていた大学生でもとうてい不可能なレベルだったそうです。
日本においては大学においてさえ、授業で進んで質問することも活発な話し合いが行われることもきわめて少ないです。
狭い人間関係でのおしゃべりを楽しんでも、相手や目的に応じて真剣に話すことには慣れていません。
これが現状です、そもそも国語科で話し方を学んだ記憶がある人はいないと思います。
アメリカの視察の後で坂本先生はこう言われています。
アメリカで目にした激しい口調でのやりとりや、ディベートで勝ち負けを決めるような手法は日本になじむであろうか。
日本には相手を思いやり、まず、相手の話に耳を傾ける察しの文化がある。
ディベートという手法よりも、互いの見方や感じ方を交流し、建設的な姿勢で向かう話し合いの方が受け入れやすいようにも思う。
自分の考えとその根拠をしっかり持ったうえで、新たな考え方を探る話し合いがあってもいいと私は思う。
ディベートをそのまま取り入れていると、いい効果がないことは意外に知られていません。
日本語の特徴を考えると、ディベートとは違った方法を考えるほうがいいと思われます。
もう一つは日本の小学校4年生の例です。
「話す、聞く」の指導の場面です。
通常の指導では先生が話しの型を提示します。
「賛成です。反対です。〜さんはどう思いますか。つけたします。別の考え方があります。」などの型を先生が提示して、ペアでの話し合い、さらにグループでの話し合いをさせます。
我々、大人でも、このような堅苦しい言葉での話し合いはしません。
坂本先生自身が、不自然さを感じていたそうです。
話型にとらわれて、かえって話しにくく感じる子どもがいるのではないかと。
そんなときに4年生の国語の授業の「読み取り」でこんな場面に出会ったそうです。
読み取りをめぐって子どもたちは熱く思いを語り合っている場面です。
「ぼく、思うんだけど…」、「〇〇さんは、こういうことを言いたいんじゃない。」、「私は、ちょっと違う考え…」、「…じゃないかな。」、「そうだよ。ぼくもそう思うよ。だってさ…。」
子どもらしい言葉が飛び交い、誰もが自問自答している場面です。
自分と対話し、教材と対話し、友だちの考えに耳を傾け、自分の言葉で語っています。
文章の語句を根拠に読み取りが深まっていくのがわかります。
子どもたち自身が問題を見つけ、その解決に向けて、「A かな、B かな、C という考え方もあるよ」と話し合いに夢中になるような授業がそこにはあったそうです。
この学級では、他の教科や日常の生活の中でも、同様なやりとりが交わされているのだろうと容易に想像できます。
国語科で学んだ話し方が生活に生きるとは、こういうことであると坂本先生は言っています。
お仕着せのよそよそしい話型から実りある話し合いは生まれてこない。
さらに言えば、「〇〇君の話し方は、よくわかったね。」と、教師は見逃さず、友だちの話し方から学ばせることでも可能だと言っています。
子どもたちは、共に学び合いながら、話し方の力をつけていくことができるのです。
これはひとりの教諭の工夫によってなされていることであり、どこにもこんな指導法はないのです。
しかし、一つの答えがここにはあります。
答えは決して一つではありません。
どんなことをやってみても今より悪くなることはないと思われます。
坂本先生は最後に以下のように述べています。
国語科教育では、言語能力が生活や社会で生きて働くことを意図した授業としては甘かったのではないか。
教師主導の一斉指導で進む講義型の授業からは、真の国語力は身に付かない。
中学校や高校で、生徒自身が立ち止まり、自問し、書きとめ、考える間はあったのだろうか。
対話や話し合いは行われていたのだろうか。
実生活に結び付く、言語表現力は育っていたのだろうか。
せめて、大学の授業では、基礎基本の力を確かにするとともに、学生の問題意識を掘り起こし、活発な言語活動が行われるよう工夫したい。
10歳以降に身につけさせるべき言語表現力を、大学で補おうとしているのです。
最適な時期が10歳から15歳であることはすでに分かっていることです。
しばらくの間は気づいた人たちができる限るのことをすることで対応するしかなさそうです。
社会に出た新人たちの「うつ病」の増加が止まりません、「新うつ病」なるものも出てきているようです。
そもそも生まれて以来、自然に身に付けてきた日本語なのだから今さら勉強しなくてもよいというのが率直な思いだと言えるでしょう。
また、家庭や学校を中心とした狭い人間関係で過ごして来た彼らにとって、それまでの伝え方を変える必要はなかったでしょう。
そのため、社会人として世に出た時に、多種多様な言語表現の場に対応しきれず、「今の若者は…」という非難を浴びることになるのだと思います。
それでも対応できないまま過ごしているうちに、やがて「うつ病」に・・・
先回の(3)で触れてみた「いじめと」や今回の「うつ病」との関係は、決して否定できることではないと思います。
坂本先生のもとで学んだ学生が実習として社会へ出た後の感想があります。
「今まで、相手によって言い方や伝え方を変えたりすることを意識したことはありませんでした。どんな言葉を使うと自分の思っていることを相手に伝えられるか、自分の言葉に磨きをかけ、相手に応じたいろいろな表現方法を学びたい。」
本来ならば中学を卒業時点では身についていなければならない能力のはずです。
それでも気づいただけ良しとしなければならないでしょう。
気づかずに社会に出てしまう者たちに比べれば、まだ適応できる可能性があるのだから。