言葉は常に変化しています。
その意味合いも使われ方も常に揺らいでいるといっていいと思います。
ある言葉が表現されたときに、その言葉から受け取る意味合いが、より多くの人が一致するほうに流れていくのです。
やがて、もともとの意味合いすら忘れられていくことも珍しいことではありません。
今回は、今ちょうど変化の途中にあるにあると思われる言葉を思いつくまま見つけてみたいと思います。
まずは、「役不足(やくぶそく)」です。
一般的には「あいつは課長には役不足だよ。」というと、①課長という役割に対してあいつの力量が足りないことを意味するようです。
本来の「役不足」の意味合いは、②力量にたいして役割が不相応に低いことを表します。
そうなると、使い方も違ってきますね。
本来の意味を生かすならば、「課長はあいつには役不足だよ。」となります。
あいつの力量には課長という役割ではたりない、もっと高い役を担うことができるということです。
実際の使われ方では①のほうが半数以上を占めていると思われます。
いずれは②の意味合いは消えていくことになるでしょう。
正しいとか正しくないとかの判断ではないのです、言葉ですからより多くの人が感じる意味合いに流れていくのは自然なことなのです。
本来の意味と言われているもの自体もある時点での過半数の意見にすぎないのです。
次はこの言葉を見てみましょう。
「うがった見方」
「君はずいぶんうがった見方をするね。」のように使われますね。
なかなかいい意味には取ってもらえないようですね。
意味合いとしては、①疑ったような見方となると思います。
本来の意味は②物事の本質をとらえた見方です。
辞書的な意味では「うがつ」で、人情の機微に巧みに触れる。物事の本質をうまく的確に言い表すこととなります。
したがって本来の使い方としては「君はうがった見方のできる人だ。」のようになります。
これも①のほうが過半数を持っていそうですね。
もう一ついってみましょう、「さわりだけ聞かせてくれるかな。」の「さわり」です。
①ちょっとした部分、冒頭の一節の意味で使われています。
本来の意味は②広く芸能で一番の聞き所となるところ(サビ)、もっとも感動的・印象的な部分となります。
昔からの芸事では本来の意味合いが残っているところもあるようですが、一般的には①の方が過半数でしょうね。
「会議が煮詰まる」という表現があります。
①会議が硬直してしまって意見が出にくい状態、というのが一般に使われている意味のようです。
本来の意味は②会議が活発化して充分に討論され、結論が出る状態にある、こととなります。
私の感じている範囲では、今のところ①②は五分五分といったところでしょうか。
いったん流れ始めた意味合いは、本来の意味や使い方に戻すことはとても難しいことです。
きっかけは駄洒落からかもしれませんし、意図して使われた業界用語からかもしれません。
半数以上が使い始めれば、いずれはその意味や使い方が当たり前の使い方となっていくのです。
天然という言葉があります。
天然ボケという言葉ができました。
ここまでは天然という言葉の使い方としては、天然資源や天然記念物と同じ従来通りの使い方です。
やがてこの天然ボケのボケが省略され「天然」だけで天然ボケや阿呆の意味を持つようになりました。
使い方も今までになかった、「あいつは天然だから。」「お前は天然だなあ。」というようなものが出てきました。
新しい言葉の誕生でしょう。
こうして多くの言葉が新しい意味を持ったり、新しい使い方をされていきます。
今までの意味や使い方からしたら間違っているのですが、絶対的に正しいものはないのです。
言葉は流動的な物です。
ただ、歴史をさかのぼるときにその時代において使われていた意味が分かることが必要になります。
そのための古語辞典の編集や古典文学の研究は欠かせない分野でしょう。
敬意を持ってその成果を見届けていきたいと思います。