「会社でだまされた人を救う」
マルチ商法が流行っていたころある会社で、マルチ商法にだまされた人たちのための法律相談をすることになりました。
その時に会社で配られたチラシに上のような文言がありました。
相談に来た人の何人かは思い切り会社の不満を述べに来たそうです。
あなたはどっちに読み取りますか?
「会社で」だまされた人を救う、つまり会社が(マルチ商法で)だまされた人を救うと言いたいのですが、「会社でだまされた人」を救うとも読みとることができます。
むかしから例に出されるものは「美しき水車小屋の娘」というのがあります。
美しいのは水車小屋なのか、娘なのかわかりません。
いくら前後の文脈から類推するといっても、もう少しはっきりとした言い方はできます。
しかし、決して日本語の使い方が間違っているわけではありません。
日本語は主語がなくても意味が分かることが多く、特に一人称(わたし、僕など)は省略されることが多くあります。
日本人の感覚のなかに「わたし」を頻繁に使うことに対して抵抗があるのかもしれません。
もしかするとそこに奥ゆかしさにつながる何かがあるのかも知れませんが、外国の人にとっては主語は絶対ですのでとてもあやふやに聞こえるようです。
特に物事や風景を描写するときには主語が省略されがちです。
「山は(が)きれいです。」といえば主語は山ですがあまり使わない表現ですね。
山が自分の力で自分をきれいにしているようなニュアンスが残ります。
「きれいな山です。」普通はこのように使いますね。
この場合は主語はどうなりますか?
「あれは」とか「それは」とかの主語が省略されている形です。
日本語の曖昧さの一つの原因です。
「むずかしい日本語の学び方」
さて、むずかしいのは「日本語」なのでしょうか「日本語の学び方」なのでしょうか?
少し考えてだけでもいっぱい出てきませんか?
日本語の曖昧さの原因がここにもあります。
掛かり言葉(形容する言葉)がたくさん並ぶとどこに掛かっているのかわかりにくくなってしまします。
そしてもう一つの曖昧さの原因は、強調法のひとつ方法としてある倒置法です。
「私は今日かえります。」を「今日私はかえります。」「私はかえります今日」としても意味は変わらず使用できることです。
強調をはっきりさせるためには読点を用いて「私は、今日かえります。」「今日、私はかえります。」「私はかえります、今日。」とすることもあります。
これらの原因が複合的に絡み合うと日本人でもわからないものが出来上がってしまします。
このように曖昧なのですが、私たちは言葉を並べる順番を無意識のうちに習得していますからそう困ることはありません。
どう並べれば正確に表現できるのか、母語を身に着けていくうちに法則をいつの間にか身に着けているのです。
ただ、このことを誰にもわかるようにまとめようとすると分からなくなってしまうのです。
これを日本語の欠陥・短所として取り除こうとすると、日本語の良さまでがなくなってしまいます。
完璧な言語は存在しません。
ましてや日本語ほどの多様性・対応性を持った言語はありません。
そのすべてを含めて特徴なのです。
いい日本語使いになりたいですね。
それでは井上ひさし先生から問題です。
次の文から何通りの意味があるか考えてください。
「黒い目のきれいな女の子」
6通り以上ありますよ。