2013年6月10日月曜日

母語は精神そのもの

母語と母国語は異なります。

ほとんどの場合、母国語とは国籍を持つ国の公用語のことを言います。

日本人であれば日本語が母国語というわけですね。

母語は読んで字のごとく母親から肌を通して伝えられる言葉です。

言葉の並びや文法的なことは伝えられなくても、母語の持つ規則性や使い方は母親との接触によ

って自然と身に着けていきます。

赤ちゃんが自分で言葉をしゃべりだすまでは、母語の中に浸っているわけですね。

言葉が少しずつ発せられると、意味は分からなくても周りの人たちが自分の言葉で反応することが

面白くなります。

そしてさらに言葉が増えていきます。

一番大切な時期は2歳から5歳だと言われています。

何でも一緒ですね。

2歳から5歳の間に脳が一番発達します。

つまり、脳の容積が一番増える時期がこの時期です。

脳科学者や教育学者がこの時期の教育や家庭環境ですべてが決まってしまうといっているのは、

母語としての基本的なインプットがほとんどこの時期でできてしまうからです。

そしてこの母語を使いながらそこにに流れる文化や精神的なよりどころを感じ取っていきます。

直接言葉で伝わらなくても母語の持つニュアンスで、また母親や母語で自分を愛してくれる人たち

の態度で感じ取れるのですね。


伝達のために使用する言葉としての習熟はそのあとから始まります。

2歳から5歳の間に何かを徹底的に教え込めば、意識せずに吸収していきますので天才が出来上

がります。

しかし、思考の柔軟性、多様性や社会性を同時に身に着けていかないと普通の社会生活ができな

い人間になってしまいます。

人が人として生きていくために必要な最低限のものは言葉と思考です。

思考は言葉でなされます。

母語でしか思考はできないのです。

物心ついてから学んだ第2言語は伝達のための道具ではありますが、その言語によって思考でき

るわけではありません。

思考は母語でしかできないのです。

第2言語は母語でなされた思考を伝える必要があるときに翻訳されて使用されます。

したがって母語は精神を形作ります。

精神そのものです。

母語の根底にある精神世界や文化は、それから先に母語を使って思考し生きていくことによってど

んどん掘り起こされていくのです。

言語は12歳を越えたら身に着けることができないといわれています。

小さな時にジャングルの奥地に迷い込み10数年たってから見つかった少年がいましたが、残念な

がら生涯言葉を身に着けることができなかった記録があります。


海外に暮らす日本人に対しての母語教育に関する啓蒙資料は見つけることができましたが、国内

の国語教育における母語に関する資料は見つけられませんでした。

帰国子女が日本の授業にうまくついていけないことに配慮されてのことだと思いますが、国内でも

もっと啓蒙されてもいいのではないかと思っています。

母語の習得はすべての学習の基本中の基本に当たります。

しかも学校ではこの習得のためのカリキュラムはありません。

国語の授業はほとんどが漢字の読み書きが中心です。


母語の習得が中途半端ですと何が起こるでしょうか?

学校教育のすべての内容が母語でなされるのです。

算数の問題が日本語としてしっかり理解できないと、算数の知識どころの問題ではなくなってしまし

ます。

問題が理解できなければ解決も何もありません。

理科や社会科が疎まれるのは主要科目でないからだけではありません。

教科書の文章がわかりにくいところにも理由があると思われます。


母親の愛情いっぱいに自然と伝えられた母語は、6歳を過ぎたくらいから自分の意思を表現するた

めに使われだします。

自己主張を始めたところで社会性を学び、いわゆる一般常識を身に着けていきます。

自分の意思を外部に対して表現した時の周りの反響によって、初めてルールがあることを感覚とし

て持つのです。

母語を教えるための能力は母親となった時に潜在的に持っているものが発揮されるものだと思い

ます。

男にはない能力です。

生存のための能力を与えてくれるのは母親のようですね。

精神そのものなのでしょう。

父親はしたたかに生きるためのテクニックを教えてくれるのでしょうかね?