2013年6月2日日曜日

日本語の曖昧さ

日本語と英語と同じテーマで議論をするとどの様な結果になるのだろうか。

厳密に言ったら日本人が日本語で議論している場合と、アメリカ人が英語で議論をしている場合の脳の働きを調べたいところです。

海外に出た日本人の頭脳はこの問題にぶつかるそうです。

通常会話においては英語の使用に全く問題はありませんが、理論の組み立てとアイデアの吹き出しについて何かが違うという感覚を持つようです。


ずいぶん前になりますが、MIT(マサチューセッツ工科大学)の主任研究員7名の日本人が取り組んだそうです。

英語を使うことについては全く不自由のない人たちです。

同じテーマについて日本語と英語で議論し結論を出しました。

どのようなことになったでしょうか。

結論を出すまでの時間が、日本語での議論のほうが英語でやった場合の2倍以上かかったそうです。

また、導き出された結論も同じにはならなかったそうです。


この実験に参加していた一人が木村順三郎Von Braum氏です。

たまたま、直接その時の話を聞く機会を得ました。

その当時、木村先生はアメリカ空軍の准将のポジションにあり、NASAのスペースシャトル計画の危機管理に加わっていました。

先生は盛んに日本語の曖昧さについて述べられていました。


その時のことを思い出しながら、英語と比較した時の日本語の曖昧さの原因についてまとめてみました。

〇主語が省かれることが多く、誰かの意見なのか自分の意見なのかの判別がつきにくい。
また、それを確認することがはばかられる雰囲気がある。

〇言葉の並び上、述語(結論が)一番最後に出てくる。
       肯定なのか否定なのか、意見なのか事実なのか、賛成なのか反対なのか、
        現在なのか過去なのかがわかるまで時間がかかる。

〇同音異義語が多い。
       言葉で議論していると共通理解のためには内容を確認する必要がたびたびある。

〇起きている現象・事実を系統だって説明するときに文章が長くなる。
      「何がどうした」がわかりにくくなる。

あくまでも、英語との比較において日本人の目から見た指摘であり、これを持って言語としての日本語の特徴と言い切ることはできないでしょう。

しかし、ここから読み取れることは日本語の曖昧さではないだろうか?

この曖昧さはどこから来るのでしょうか、少し考えてみました。


物事をはっきり述べること、特に自分の意思をはっきり述べることを良しとしない感性が日本人にはあります。

古い文献に触れれば触れるほどその傾向は強くなります。

そこはかとない雰囲気の中で相手の意向をおもんばかり、それを直接確認することを無粋とする感性は「以心伝心」「一を聞いて十を知る」などの言葉にもつながっています。

奥ゆかしさを他の面から見ると曖昧さと映るのでしょう。

明治以前にはほとんど「私」という主語を使わなかった日本では、自分のことについて言うこと表現することが苦手です。

自己主張することはよくないことだという感覚があります。

グループの中にあって構成員としてそのグループのために尽くし、目立つことをしない。

日本人が根底に持っている感覚・美学が、「私」を前面に出さないと生きていけない世界の人たちから見ると曖昧さと映るのではないでしょうか。


国際的なビジネスの場面においては、しっかり自己主張をできるようにしなければならないこともあると思います。

しかし、母語を日本語とする私たちにとって「自己主張はよくないこと」という感覚が染み込まれています。

しっかり主張できないことを悩むのではなく、主張すべき場面で主張する技を身につければよいのです。


自己主張している自分、ネゴシエーションでのやりとりで嫌悪感を持つことがあります。

素直な感性なのです。

自分を嫌にならないでください。

私たちはそういうことが嫌いなんです。

その場をうまくしのいで、もっと心地よい世界で生きていいと思います。

特徴さえつかんでおけば、対応する技を磨くことはいくらでもできますから。




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