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2014年12月10日水曜日

母から子へ、言語の伝承

人の言語が、母語(伝承言語)、国語(学習言語)、生活語(環境言語)の三つでできていることは何回も触れてきました。

生きていく上ではすべての言語が大切なのですが、そのなかでも基礎となっているのが伝承言語である母語になります。

それぞれの言語の習得時期やその内容については、過去のブログを参考にしていただきたいと思います。
(参照:知的活動と言語について


人にとって一番大切な基礎言語である母語なのですが、その存在はほとんど意識されることがありません。

学習言語としての国語については、義務教育における重要な教科として、あたかも日本語のすべてであるかのような扱いを受ける事がありますが、母語については言葉としてもあまり聞くことがありません。

人自身がほとんど意識することなく、身につけて使用している言語ですので、ある意味では仕方のないことかもしれません。

そのために、母語習得の段階で知らないうちに妨げになっている行為が行われていることがあります。

母語の役割について理解していれば避けられることですので、是非とも母語について関心を持ってもらえるようにしたと思います。


母語が、基礎言語として大切であることは、大きく二つの理由が挙げられます。

一つ目は、言葉を持たない幼児期に習得する初めての言語であり、論理的な学習能力のない時期に本能によって身につけるものであるために自分自身では選択ができないことです。

ほとんどの場合は母親から伝承されるものになります。

言語の伝承がここで行われているのです。


日本語を例にとると、文字のなかった時代の「古代やまとことば」はひらがなの発明によって現代にまで受け継がれています。

この言語の伝承そのものが、母親の言語を子どもに伝承するという母語によって延々と行われてきているのです。

したがって、広い意味での日本語の乱れの根本原因は、母親の言語にあるということができます。

母語は母親の持っている言語以上のものを習得することは、ほとんどできません。

母親の持っている言語の一部が、母語として子どもに伝承されていくことになります。


その母親の言語もまた、母親の母親から受け継いで来た母語を基本として、国語、生活語によって作られてきたものです。

実際に子どもを持つことになると、子育ては戦争にも例えられるくらい大変なものです。

とても言語のことをじっくりと考えている時間などありませんし、母語のことを意識して日々の生活を行うことも難しくなります。

子どもを持ったからと言って、母親の言語が変わるわけでもありません。

それまでに取得してきた言語がすべてになります。


特に幼くして10代のうちに子どもを持った場合などは、母親自身が社会環境において習得する生活語を十分に持っていないことが考えられます。

20代後半から30台で持った子どもに比べると、母語自体にかなりの差が出ることがあります。

また、30代の後半以降になってくると、母親の言語における生活語の割合がどんどん高くなってきますので、これまたバランスの悪い母語を持つことにもなります。

女性の出産適齢期は、伝承する言語にも影響があるということができるようです。


母語が大切な二つ目の理由は、人の知的活動のための基本機能が母語によって決まってしまうことです。

子どもの知的活動のための機能開発は、幼児期においてほぼ本能的に行われていきます。

しかし、そこには開発されていく方向が定まっていないのです。

生まれたばかりの子どもは、どんな言語でも使えるようになっています。

母語を身につけることによって、その母語を使うために一番適した機能として発達していくのです。


それぞれの母語が他の音よりも言語として捉えやすいように聴覚が発達していきます。

母語によって思考がしやすいように脳が発達していきます。

人の知的活動として必要な機能は、母語を最適に使えるように発達をしていくのです。


母語は複数言語を持つことは出来ません。

幼児が言語の区別をできないからです。

にもかかわらず、母親がバイリンガルであったりして日常的に複数言語で幼児に触れていると、混ざり合った言語を母語として持ってしまうことになります。

その方向に知的活動の機能が発達していってしまうと、どの言語感覚とも合わなくなってしまいます。

世の中にない言語感覚を持ってしまい、社会生活において著しい苦労をすることになるのです。


次の段階である、学習言語としての国語を習得するのも母語によって行われる知的活動の一つです。

母親からの伝承言語という全くの個人的な言語を基礎として、日本語としての共通語である国語を身につけていくことになります。

同じ言葉では同じ理解ができるように、型にはまった規則的な日本語としての国語を習得することで、共通する知識やルールを身につけていくことになります。


母親から伝承される言語によって、人としてのほとんどのことが決まってしまうのです。

しかも一番大切な時期は、生まれてから18ヶ月と言われています。

まだ言葉を発するすることがほとんどできない期間です。

発することは出来なくとも、理解していることはたくさんあると言われています。

このすぐあとにくる、言葉の噴火や爆発と言われる一気にたくさんの言葉を発する時期への仕込み段階だと言えます。

この時期にどれだけ母親が語り掛け、愛情を持って子どもが安心できる形で接していられるかどうかが大きいと言われています。


このような伝承によって1000年以上前の言葉を継承してきているのです。

母親になる前に身につけていた言語が、伝承できる言語の限界です。

せめて妊娠が判明した時期からでも、もう一度日本語について見なおしてみることは、生まれてくる子供にとって最高のプレゼントではないでしょうか。

母語の習得は、子どもが自分で選択できないことでもあり、後からの努力では補いきれないものです。

しっかりと伝えていきたいですね。




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2014年12月3日水曜日

言語の伝承

人が持っている言語については、何回も触れてきていますし、その中でも基礎言語として母語の大切さについても機会あるたびに書いてきました。

様々な見方で表現していきながら、より多くの人に理解していただきたいと思っています。

その根源にあるのは、世界の言語から見た時の日本語の際立った特徴であり独自性です。
(参照:気づかなかった日本語の特徴


漢語という輸入言語を元にしながらも、文字のなかった時代から日本独自の言語として使われていた「古代やまとことば」を表す「かな」を発明したことが、日本語の基礎となっています。

結果として日本語は、話し言葉としても文字としても世界に類を見ない、日本だけの独自言語としての歩みを始めたのです。
(参照:「ひらがな」の成り立ち

独自言語の存在は、世界にはいくらでも例を挙げることができるものです。

しかし、その独自言語が世界の最先端文明を取り込みながら、世界の文明の最先端を走るモノまでになった例はほとんどありません。

先端文明を取り込むことは、その文明を作り上げ継承している言語そのものを取り込むことになるからです。

その文明の恩恵にあずかるためには、その文明の言語を使用しなければならなくなるからです。


先端文明を取り込んだことによって、言語そのものが先端文明を生み出し利用している国の言語に変わっていった例は数限りなくあります。

それは、自らの意志で先端文明を取り込もうと、植民地的に押し付けられようとも結果としては同じことになりました。

取り込んだ先端文明は、今までになかった技術であり考え方であったりして、今までの言語では表現できなかったものだったからです。


独自の言語を生かしていくためには、自らの持っている言語で先端文明が持っているモノを表現しなければなりません。

自らの持っている言語で、新しい言葉や表現を生み出していかなければならないのです。

先端文明の導入は、多くの場合は人の移動を伴って行われました。

先端文明を持った人によって伝えられ、その人が持ってきた言葉によって広がっていきました。


日本においては地理的な条件や気候条件もあり、先端文明の多くが書物によってもたらされました。

その結果、先端文明が持っている言語に対する翻訳が徹底的に行われていったのです。

そして、自分たちの持っている言語による先端文明の理解と拡散に繋げていったのです。


そこでは完全なコピーを出来なかったものがたくさん存在しています。

オリジナルとは異なった、言語に代表される日本ならではの環境に調整されていったものがたくさん存在します。

その結果、オリジナルの日本を残したままに世界の最先端文明を取り込んで、日本文化を昇華させていったのです。

同じ技術であっても、日本において調整されたものはオリジナルのコピーではなく、日本独特のものに変化しながら発展していったのです。


「古代やまとことば」の感覚が日本の原始オリジナルだとしたら、「古代やまとことば」を基礎文化として、数多くの世界の最先端文明を模倣した学習文化をその上に積み重ねていったことになるのではないでしょうか。

世界の文化に追いつけ追い越せと走っていた、明治維新から第二次大戦後の経済発展までが学習文化の時期だと思われます。


やがて、学習期間が終了し世界のなかで自主性を持って生きていかなければならない時期が来ます。

様々な分野が広がっており、様々な環境があり、それぞれのなかで適応しながら生きていかなければなりません。

取り込んで真似をして、自分流に理解していればよかった環境から、生きてくためには持っているものを生かして自らを適応させていかなければならなくなったのです。

そこでの拠り所は、自らの能力であり独自性であり特異性です。

日本として世界の環境の中で生きてく方法を見つけて、実行していかなければならなくなったのです。

参考にできるものはたくさんあっても、単なる理解と模倣では生きていけなくなっているのです。

参考にすることもあっても、自らのアウトプットによって生きていかなければならなくなったのです。


このことは、言語習得の環境ときわめて類似していると思われます。

親から基礎言語としての母語を伝承されて身につけていくのが幼児期です。

生きていくため必要なルールや知識を身につけるために必要なのが、学習言語としての国語であり、義務教育です。

実際に社会で生き抜いていくために必要なのが、それぞれの生活をする環境における生活語です。


親として持っているこれらのすべての言語が、主に母親から子供に伝承されて、子どもにとっての母語となっていきます。

そのすべてを伝承することは不可能ですので、伝承されていく母語は母親の持っている言語の一部として、極めて個人的なものとなっていきます。


母語としての「現代やまとことば」、教育言語としての明治維新以降に造られた多くの和製漢字、環境言語としての英語や中国語、そんな感覚が持てるような気がします。
(参照:「現代やまとことば」を使おう

現在では、伝承すべきものが、あまりにも環境言語に偏りすぎてはいないでしょうか。

伝承すべき私たちが、もっと伝承言語や学習言語について理解しておく必要はないでしょうか。


日本語は、先端文明を走っている言語としては、世界の他の言語とは一番遠いところにあるものです。

そのことが特徴であり価値ではないでしょうか。

この価値こそ継承すべきものであると思います。


小手先で、目先を生きていくことは、生活語だけでもできるかもしれません。

でも、母語と国語によって守られた生活語だからできていることを忘れてはいけないのではないでしょうか。

言語の伝承は、文化の伝承そのものです。


せっかく、日本語と言うとんでもない価値を持った言語を持って生きているのですから、もっと多様なもっと日本らしい生き方ができてもいいのではないでしょうか。

「やまとことば」をきっかけに研究し始めた日本語が、ずいぶん遠いところまで来てしまった気もしますし、本来行くべきところに来ている気もしています。

これからもどんな所へ行けるのかはとても楽しみでもあります。

知れば知るほどすごい言語ですね、日本語は。

ますますのめり込みそうです。




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