話して人に何かを伝えるときには気がついていないことがたくさんありました。
実際に伝わっているものが「ひらがなの音」でしかないことや、話し手が伝えているつもりになっている言葉は決して話し手が思っている意味では伝わっていないことなどがありました。
(参照:大切な「ひらがなの音」)
その中でも伝える時に気を付けておきたいことを挙げてみました。
- 「ひらがなの音」をしっかりと発すること(発声)
- 言葉の切れ目に間をもたせること(句読点・文節)
- 接続詞をうまく使ってきき手の予測を助けること
- 「現代やまとことば」を使うこと
- きき手のやっていることを理解すること
ほとんどが技術的な問題で、よりわかり易く伝えるためにはとても大事なことばかりです。
ところが、伝える側の心構えひとつで自然とこのようなことが行なわれていることがあります。
本当に本気で伝えなければならいとなった時には、必死で持っている伝え方を駆使しながら伝えているのです。
しかも「伝える」ことは話し手の意思が強調されている表現となっているものです。
本当に伝えるためにはきき手に「分かってもらう」状態にならなければなりません。
つまりは聞き手の立場で自分が伝えていることを見ることができるかということになります。
使う言葉や技術的には決してすぐれていなくとも分かりやすい話を聞いたことがあると思います。
それはどんな時だったでしょうか。
恐らくは、話し手の理解してほしいという意識がはっきりと見えているときではなかったでしょうか。
しかもその内容が、小手先の金儲けや交渉技術などではなく人としての生き方や人との付き合い方などの人としての極めて基本的な活動にかかわるものの時ではなかったでしょうか。
そしてその内容はまた、単なる知識として伝えているのではなくそのことによって導かれる行動が自分を含めて周りの人たちに良い影響を与えると思われるものではなかったででしょうか。
何よりも話している本人がそのことを強く経験しておりそのことを伝えて実現することを使命として感じていることではないでしょうか。
他の人がどんな感じ方をしていようと関係ありません。
使命とは自分自身がそのことを伝えて行動をしてもらうことを命を使って行なうことだと感じていることです。
一歩間違えると洗脳的に使命だと思い込まされている場合もあると思います。
知識や経験の少ない、自分での判断が偏ってしまいがちな若者たちがはまってしまう宗教的なことも、本人が使命だと感じてしまえば同じことになってしまいます。
言葉や経験が少ない彼らでも、それが使命だと感じてしまえば強烈なインパクトをもって語りかけてきます。
もちろん会話技術的なことを教え込まれている場合もあると思われますが、一般的な話よりは相手を理解させたり説き伏せるチカラは強いものではないでしょうか。
それは、話をしている本人がそのことを伝えて理解してもらいさらには行動してもらうことを命を使って行うべき使命だと感じているからになります。
何かに方向つけられた洗脳的な内容では、結果としての行動が他者に迷惑をかけることになりますので気を付けなければいけませんが、話を伝える時の心構えとしてはまさしく大切なこととなります。
つまりは、どんなに技術的に話しの伝え方を学習したとしても、伝えようとする内容が話し手にとって命を使って伝えるべきものであるかどうかによって全く異なったものとなってしまうことになります。
使命とは命を使って行なうことであり、命=時間ですので自分の時間の多くをこのことのために使っているものとなります。
自分の時間のほとんどを使っているものが人の役に立たないものであることの空しさは年を取るほど、持っている時間が少なくなるほど強烈に感じるようになります。
残り少なくなった時間であっても自分が使命であると感じていることに対しては積極的に使うことに何の抵抗もありません。
それ以上に残っている時間のできるだけ多くのものを使命のために使いたいと感じていることになります。
そのために学習や修正、苦労はむしろそのために時間を使いたいと感じているものとなっています。
そこには、人に伝えることや理解してもらうことも含まれているのです。
どんなに伝えるための技術を駆使しようともしっかりとした使命を持った人が伝えることにはかなわないことになります。
最低の伝え方は自分の持っている知識をきき手に自慢するためのものとなります。
どんな内容であっても聞き手が理解することは自慢話としての内容となります。
面白おかしい話としての理解はされることがあったとしても聞き手にとっての役に立つ内容とはなっていないものです。
伝えたい内容が、聞き手にとっての生きる上での生活するうえでの役に立つものであり、その行動をすることによってきき手自身だけではなく周りの人にも良い影響を与えるものとなっていることでないと使命を感じることができないのではないでしょうか。
使命を持って伝えるものでないとどんなに技術を駆使しても分かってもらえることが少なくなります。
反対に技術的には劣っていようとも話し手の使命が感じ取れる場合には聞き手は分かりやすい環境となっているのです。
社会的にも犯罪に近いような内容がどうして理解されて行動されてしまうのかは技術的な要因よりも、話し手が本気で使命を感じて伝えていることによることが多くなっています。
洗脳的に行なう使命の悪用ということになるのではないでしょうか。
使命だと思いこませれている場合は決して他人ごとではありません。
自分が軸している企業や組織、団体や社会において知らないうちに使命だと思い込まされていることが思った以上に多いものです。
さまざまな分野においても道を究めようとしている人たちが時間を重ねるほどに同じような使命に向かっていくことは決して不思議でもなんでもないと思います。
若いうちは技術やアイデアで貢献することを使命だと思っていた人たちも属する社会が広くなるほど何が本当に役に立つものであるかの基準が変わっていくことになります。
使命も変わっていくものではないでしょうか。
今自分で感じている使命は一年後も同じものだとは限りませんが、必ずその延長線上のどこかにあるものだと思います。
その時々で自分の感じている使命を確認していくことも大切ですね。
そうでないと、本気で分かってもらいたい伝えたいという動機が揺らいでしまいますから。
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