感性を持って理解するということは、同じ言語表現に対しても一人ひとり受けている感覚が異なることでもあります。
一冊の本に触れた時や誰かの講演を聞いた時においても、感性として受け取った理解は人によって異なっているということになります。
言語による表現を唯一絶対のものとして扱おうとするアメリカ英語の感覚とは言語の対極にあるものと言えると思います。
それだけに、相手に対してどのような伝わり方をしているのかは、伝える側が想像力をたくましくして発信していかないと簡単に誤解が生まれてしまうことにもなります。
言葉ひとつの選び方から語順や助詞や接続詞の使い方など、誤解を生む要素を挙げたらきりがないくらいです。
「やまとことば」や「現代やまとことば」で何度となく触れてきていますが、日本語の根幹をなしているものは「ひらがなことば」で間違いはないと思われます。
(参照:「現代やまとことば」が導くもの)
先進文明に触れることによってより具体的な詳細な表現が必要になってきた来たことによって、新しい漢字や数字やアルファベットが必要になってきました。
「やまとことば」の時代には物を表す最小単位ととしての品番など存在していませんでした。
先進文化の導入とともに品番が必要になったことによって数字とアルファベットが必須となってきました。
「ひらがなことば」では表現することができないものであったのです。
「ひらがなことば」を核としていた日本語に、新たに漢字が大量に加わったのが明治維新です。
一般庶民の言語としてはひらがなだけで十分に生活が成り立っていた環境から、多くの漢字を使わないと生活ができない環境となっていったのです。
これに、拍車をかけるように100年もたたないうちにアルファベット文明が大量に押し寄せてくることになりました。
これらについても日本語としての取り込みをしていったのです。
結果として、日本語は膨大な文字や言葉を持つ言語となっていったのです。
もともと環境によって言葉を選んで使っていたために同じ意味を持つ言葉でも場面によって多くの言葉を持っていたのが日本語です。
代表格は人称代名詞ではないでしょうか。
自分を意味する人称代名詞は「わたし」「おれ」「ぼく」「せっしゃ」・・・数えたらきりがありません。
更には自分は変わらないのに相手や環境によって「わたし」になったり「おれ」になったり、ときには「おじさん」「おまわりさん」などという本来は人称名詞でないものまで登場してきます。
更には、多くを語らずという基本文化がありますので省略されることも少なくありません。
微妙なニュアンスや環境の違いによって使い分けられる言葉が多いということは、実際の場面では使い間違いが起こることも多いことになります。
また、同じような環境であっても地域や関係によって使用している言葉が違っていたりします。
自分が持っている言葉の使用基準と相手の持っている言葉の使用基準が同じことのほうが珍しいことになります。
自分が「おれ」を使うにふさわしいと感じている場面が、必ずしも相手も「おれ」がふさわしい場面と感じているとは限らないということです。
言語は意識しなくとも日常触れているものです。
それだけに、違和感もなく過ぎているときはほとんど無意識のうちに使用されていきます。
それだけにちょっとした違和感に対しても敏感に反することが起こります。
その場で違和感を指摘するまでもなくとも、なんとなく引っかかるといった感覚を持つことがあります。
しかも、違和感の原因が分からないままに「ん?」というような感覚で流れていくことになるのではないでしょうか。
この「ん?」が話し手の意図と聞き手の理解の誤差の原因の一つです。
話し手の方から聞き手の「ん?」を確認できれば、その場で瞬間的に修正することもかのうですが実際にはほとんど不可能なことはよく経験していることではないでしょうか。
更には、それぞれが持っている同じ言葉に対しての理解がすべて異なっていることを理解していないと大きな誤解が生じることになります。
言葉は一人ひとりのものであって、同じ言葉に対してあなたが持っている理解とわたしが持っている理解とでは異なっているのです。
聞き手が10人いれば10人一人ひとりが違った理解を持っているのです。
しかもその理解は、話し手の持っているその言葉に対する理解とも異なっているのです。
来ている人の理解の内容をその場で確認することができればいいのですが、実際の場面ではほとんど不可能です。
相手の理解に任せておいて構わない内容であれば問題はないのですが、話をして伝えるということは理解してもらうことを目的としていることが大半です。
自分の持っている理解と同じような理解をしてもらうために伝えているのではないでしょうか。
日本語はとんでもなく大きな言語です。
しかも感性の言語ですので具体的で正確な内容を伝達することが難しい言語となっています。
更に輪をかけて、言葉の多さが嫌われる文化的素地があります。
省略美を追い求める方向に引っ張られているものです。
略語の多さはあらゆる分野に及んでいると思われます。
そして、教育の中心は行間を読むことであり一を聞いて十を知ることになっているのです。
日本語環境においては、話し手の意図は正確には伝わらないのが当たり前なのです。
伝えようとするならば、相手がどのように理解しているのかの想像力が必要なのです。
単なる言葉の理解に対する想像力だけではありません。
どんな環境で生活をしているのか、どのような経験をしてきているのか、どのような地域で生活をしてきているのか、どのような仕事環境にあるのか・・・
それらのすべての経験が一つの言葉の理解に反映しているのです。
初対面の人との会話が進まないのは、恥かしいからではないのです。
共通理解ができる言葉が見つからないからなのです。
だから、趣味を聞いたり出身地を聞いたり仕事内容を聞いたりして共通理解ができる経験環境を確認しているのです。
そこから、共通して理解できる言葉を探しているのです。
言葉だけにとどまらずに語順や助詞や接続詞、アクセントや言葉の使い方までがすべて違っているのです。
伝える場合には、伝える相手のあらゆる経験を想像しないといけなくなるのです。
そうしないと、同じ言葉に対して相手が理解しそうな内容が分からないのです。
ひとたびつかんだ言葉の端々のニュアンスからどんどん想像していかなければ、きちんと伝えることができなくなるのです。
経験によって人の日常使用の言語は変化していきます。
それは自分自身でも気がつきにくいことです。
同じ言葉に対しても、その言葉との出会いを重ねるたびに自分自身のなかでその意味が変化したり強化したりしているのです。
同じ本を時を経てから読んだ時や、昔の講演の録音を聞いた時に受ける感覚と理解の違いと言ったら分かりやすいかもしれませんね。
書かれたものや聞いたものは、そのまま理解されることはないのです。
必ず読み手や聞き手の言語の理解に対するフィルターを通っているのです。
自分の意図がそのまま伝わっているなんてことは絶対にないことだと知っていることは大きな力になります。
想像力を使って伝えていきたいですね。