ことばとして話すことと文字として書くことが伝えるための中心活動であることには疑いはないと思います。
補助的にはそれ以外にもいくつか考えることができると思いますが、それらはどれをとっても話すことと書くこと以上に伝えられるものではありません。
伝える側から見た場合の表現として話すことと書くことと言うことができますが、受け手の側から見た場合には聞くことと読む(見る)ことということができると思います。
それぞれの立場からその行為の専門性を見てみたいと思います。
受け手の側から見てみると、聞くことは五感の一つとしての聴覚として耳の受け持っている専門分野であり、耳は聞くことの機能のためにフルに活動をしていることになります。
同じく読む(見る)ということは五感の一つの視覚として眼の受け持っている専門的活動となっているためにその機能は同じように専門的に磨き上げられてきているものです。
対して、話すことと書くことはどうでしょうか?
話すことは口で行なっていることですが口の持っている感覚は五感の一つとしては味覚のための器官となっています。
口は話すことのための専門機関ではありませんが、話すことは口でしかできないことでもあります。
また、書くことは手によって行なわれていることではありますが、手は五感の中の触覚をメインに司る器官となっているものです。
つまりは、話すことも書くこともそれぞれを行なうための専門機関が行なっているわけではないことであり、話すことや書くことを行なっている機関はそれ以外に人の基本的感覚を司る基本的な機能が存在していることになります。
反対に、受ける側である聞くこと見ることにおいてはその機能を行なうための専門機関が受け持っている機能となっています。
このことから考えると、発信して伝える側よりも受信して受け取る側の方が基本的な能力が高いことになるのではないでしょうか。
結果として、伝えるという行為においては受け手が持っている機能に大きく依存していると思われます。
伝える方がどんなに工夫をしようとも受け手側がどのように受けているのかは理解しきれないことになるのではないでしょうか。
文字として書かれたものについては記録として残されている以上、その場での理解を後から修正したり確認したりすることが可能となっています。
ことばとして話された場合には瞬間的な活動でしか受け取ることができません。
話している内容を聞き取るという行為はとんでもない高度な活動を瞬間的に行なっていることになると思われます。
日本語が持っている音は「ひらがな」の基本音(濁音、半濁音を含む)である71音で出来ています。
世界の言語の中でもかなり少ない基本音の数となっているものです。
小さなひらがなで表現される「きゃ」「たっ」などを音として数えても150音までには至らないと思われます。
つまりは、文字としての漢字やカタカナ、アルファベットなどの使い分けは話し言葉においては出来ていないことになります。
発信する伝えたい側がどんなに意識して漢字の使い分けやカタカナやアルファベットのニュアンスを伝えようとしても、実際に受け手に届いているのはすべてが「ひらがな」の音となって届いていることになります。
受け手は最初に認知できることばはすべて「ひらがな」の音として行なっていることになるのです。
伝わった音をどのようなことばとして認知するのかは、受け手の機能に任せるしかありません。
音の区切りがどこで行われて何文字の言葉として認知しているのかや発信側が意図した音と同じ音として認知してもらえているのかどうかは発信者側からは全く分からないことになります。
受け手側はまずは「ひらがな」の音として発信者の意図している音を拾うことが最初のステップとなります。
次の段階で、拾うことができた音がどんなことばの音であるかを見つけることを行なっています。
そのことばは「ひらがな」の音で表されたものです、音としてのことばを見つけることになります。
この段階では受け手側には文字の種類は関係ありませんし、言葉の意味も関係ありません。
「ひらがな」の音の連続の中からことばであろうと思われる音の続きを捕まえようとしてるだけのことではないでしょうか。
発信者がどんなに文字で言葉を意識して話をしていたとしても、受け手には「ひらがな」の音としてしか伝わっていないことになります。
発信者が「換気」という言葉を伝えようとして話しても、それは「かんき」というひらがなの音としてしか相手に伝わっていないことになります。
それも「かんき」という三音が正確に相手に伝わって初めて行なわれることになります。
受け手の側では「か」「ん」「き」という三つの音を正しく拾うことによってその伝わり方によって「かんき」ということばであろうと推測することになります。
「かんき」が「換気」なのか「寒気」なのか「歓喜」なのかあるいは「カンキ」なのか、またそれ以外の「かんき」であるのかの理解はさらにその後に行なわれることになるのです。
人が持っていることばは、文字として持っている言葉の方が音として持っていることばよりもはるかの多いものとなっています。
したがって、何かを伝えようと思う時には文字としての言葉が浮かんでいることが多くなります。
その言葉を伝えようとしていても、実際に伝わっているのはその言葉が持っている音としてのことばの音だけになります。
発信者から受け手への認知を順番にすると以下のようになります。
言葉(文字) → ことば(音:発信) → 音(「ひらがな」:受信) → ことば(音) → 言葉
発信するための機能をつかさどっている機関が発信するための専門機関ではないことを含めて考えると、これだけの工程を経て最初の言葉と最後の言葉が同じものになる確率は決して高いものであるとは言えないのではないでしょうか。
更に、言葉の意味までを考えると一人ひとりが持っている言葉の意味については、同じ言葉であっても決して同じものとはなっていないと思われます。
発信者が伝えようとした内容は、受け手にはまったく同じように伝わることはないと言い切ってもいいのではないでしょうか。
少しでも正確に伝えるための努力は怠るわけにいきませんね。
「ひらがな」の音として伝わっている以上、「ひらがな」の音しか持っていない「ひらがなことば」が正確に伝わる確率はかなり高いということができると思われます。
「ひらがなことば」を上手に使うことが上手く伝えることの基本にあるのでしょうね。
そういえば、日本語を母語としている人で「ひらがな」が分からない人はいませんね。
誰に対してもきちんと伝わるのも「ひらがなことば」ではないでしょうか。
使いこなしていきたいですね「ひらがなことば」。